どうしたんですか夜中に。
名前を呼ぶ以外にこめられた、言外の気持ちを感じたのか。ネスティが、無言のまま手に持ったコップを持ち上げてみせた。
ガラスで出来たそのコップには、廊下の窓から入り込む月の光を受けてかすかに輝いている――水が、なみなみと。
ほほう、と、は表情をほころばせた。
まさに、自分が目指していたそのものが、目の前にあるわけだ。
「……」
まるでマグナみたいだなぁと自覚しつつ、にへらと笑うのが見えたのか、ネスティが一歩後ずさる。失礼な。
「お水、あたしも欲しい」
「汲んでくるといい。月明かりがあるから、歩くのにも困らないだろう」
「……ネースーティー……」
脱力。
判ってて云ってるのか、それとも単に判ってないのか。
「おすそ分け! 一口でいいから」
もう一度笑って、彼の手のなかのコップを指差すと、彼も合点が行ったようだ。
「ああ。ほら」
「ありがとう」
差し出されるコップを両手で受け取って、約束どおり、一口。
それから返そうと視線を向けると、
「――」
鋼色の目が、まっすぐに、の方を見ていた。
いろいろのこと――たとえばマグナとトリスのこととか――は、訊くまいと思っていたけれど。そういう、泣きそうなこどもみたいな目でこっちを見られると、普段ならぽんと浮かぶはずの、他愛ない世間話が出てこない。
このままコップを押し付けて部屋に帰る選択もあるものの、それだとあとで後ろめたい気分に襲われそうな気もする。
どうしようかと思っていたら、先に切り出したのはネスティの方だった。
「……マグナとトリスに、僕がなんと云ったか聞いたか?」
しかも気がかり直球。
「あ、……はい」
彼の声は、沈痛だった。月明かりに透かして見た表情もまた、辛酸に満ちている。
「どうしても、ふたりをあの森に行かせるわけにはいかないんだ」
罪をこの身に刻んでいる存在として、また、一族の義務を背負う立場として。
淡々と告げるネスティのことばは、だからこそ、聞いているの心臓に冷たい感覚を呼び起こす。
でも。
「だから――」
「でもネスティには出来ないよ」
続けようとしたネスティのことばを奪って、は云った。
どきりと心臓が跳ね上がったのが、表情に出なかったか。心配したのはまずそのこと。
けれどの視線は壁――窓の方に向いていて、彼の方は見ていなかった。それは彼女の気遣いだったのか。
「レルム村出る前に、話してくれたじゃない。マグナとトリスがどれだけ大切か、ネスティはあたしに教えてくれた」
だから、そんなコトあなたはしない。出来ない。
告げられることばは、さっきまで彼が思っていたこと、そのままだ。
けれど一族の血の続く限り背負ってきた重荷は、己がそうすることを許さないでいるのも事実。
あの場所に近づけるくらいなら殺してしまうしかないと思っても、そんなことは出来ないと訴える心。けれどそうしなければ、間違いなく禁忌の森に辿り着くだろうふたりを、そうなる前にと主張する血。
禁忌の森へ至る、それだけは防ぎたい。けれどそのための手段は実行できない。
堂々巡りのこの思考に、決着をつけられないでいる。
「……あたしも」
「?」
小さな声で、が口を開いた。
「あたしも、ネスティとは違うけど、全然反対の気持ちを持ってる」
全部を云う必要はないと思った。
自身のことを話して、ネスティの何が変わるわけでもないかもしれないけれど。そもそもの事情だって、きっと全然違うけれど。
それでも、正反対の気持ちを抱えているそのことは、共通していると思う、その気持ちだけで口を動かした。
「だけどどっちかを捨てようって思わない。今は、思えない。どっちも、あたしの心が選んだコトだもん。ずっとずっと奥まで突き詰めて、それでも残った気持ちだと思うから」
夜色の瞳がネスティを見上げる。
真っ直ぐに。気後れもせず。強く。
「ネスティは、どう? どっちの気持ちも、心に嘘はついてない?」
これから云うコトは、もしかしたらひどく自分勝手な意見かもしれない。
だけど今を逃せばもう、機会はないかもしれないと、躊躇を打ち消した。
「――ネスティの心はきっと、マグナとトリスのコト、大切にしていたいと思うんだ。だから、ネスティは持ってる選択肢のうち、その片方は絶対に出来ないって思う」
だって、と、それは確信。
「あたしたちは、きっとみんながみんなを大好きで、みんながみんなを守りたいって思ってる」
それはネスティも変わらないはずだ。
「……だったら、僕の選ぶ道はひとつしかない、と?」
罪が暴かれるのを承知で、一族の義務に背いた上で、あのふたりを禁忌の森に向かわせろと、君は云うのか?
問うと、はにっこり笑う。
指を二本立ててみせ、一本をすぐに折り曲げた。
「選択肢はふたつ。うちひとつは選べない。だったらもうひとつを選ぼうよ」
「……消去法というのも、ずいぶんと後ろ向きではあるな」
「そんなコトないよ」
だってね。
「どうせどっちに転んでも苦労するのが目に見えてるなら、自分に嘘ついちゃう方を消して、嘘つかないですむ方を選ぶほうが絶対に精神的お得だと思うよ!」
立てた指先を、手をいっぱいに伸ばしてネスティに突きつけて、が笑う。
そして、「それにさ」と付け加えた。
「すっごい強いて云えば、どっちも選ばないって選択もあるかもしれないけど――」
ネスティはまだ知る由もないが、たとえばなら、黒の旅団もこちらの皆も選ばず、捨てて、遠ざかる。そんな道もあるにはあるのだ。
けど。
「そんなの選ぶくらいなら、苦労してでも正直なところ、選びたい」
……あたしはね。
そう告げ、笑みをやわらかいものに変えるへ、なんと云っていいか判らなかった。
……いや、なんと云うとかいう問題じゃない。
かなわない。
闇しかないと思った自分の立つ場所に、光が差し込むような感覚。大げさと云われようと、それは間違いなく素直な気持ち。
のことばは、ネスティの背負ったものを知らないからこそ云えるんだろうと頭のどこかが告げている。
……だけど。
本当に、それで気分が軽くなってしまっているのだから、自分に苦笑するしかないではないか。
――そうだ。もう、認めよう。
今ここで進路を森に向けなかったとしても、いつかは辿り着く予感がしていることを。それは確信に近いことを。
そのための運命も道しるべも、あのときレルムの村で、ふたりとアメルが出逢ったときから動き出していたことを。
義務も、罪も、忘れてはいない。叶わぬ贖罪を叫ぶ血が、消え去る日は来ない。
義務と願いは両立させ得ない。どちらも捨て難く得難く、片方をとるならば身をねじられ、しぼり引きちぎられるような痛みを伴なうだろう。
けれど。それでも。
は、何も選ばないことを選ぶなと云ったのだ。
「……いつまでも、目をそらしつづけるわけにはいかないのかもしれないな」
もうこれ以上、自分があのふたりに対してしてやれることは残っていないのかもしれない。
ならば、その進む道を見届けるくらいは。そう思った。
「ネスティ」
声音を察して、うれしそうに名前を呼ぶの声。笑顔。
何度も救われてきた、彼女へと。自然、笑みを形作って告げた。
「明日、マグナとトリスに云うよ」
――せめてその瞬間までは、彼らと共にあろうと思った。
「僕は、彼らとともに行く」
「――うんっ!」
つい大声を出してしまって、あわてては口をふさいだ。
それがおかしいのか、ネスティが笑う。
でも、それはいつか見せた自嘲の混じった笑みではないから、なんとなく安心出来た。
「……つき合わせてすまなかったな。もう寝るかい?」
「あ、うん。じゃあ、また明日ね」
今の時間を思い出したか、ネスティが月の位置を確かめながらそう提案する。もちろん、は一も二もなくうなずいた。
「ああ、また明日」
「おやすみ!」
「――おやすみ」
手を振って、廊下を戻って部屋に入り、ベッドに倒れこむ。
さっき寝ていたときと同じくらい、ぐっすり――ついでに幸せな気持ちで眠れる予感がした。
が部屋に戻ったのを見届けて、ネスティも部屋へと戻る。
扉を閉めて、手に持っていたまま口をつけなかったコップの存在を、そのときになって思い出した。
喉の渇きもどうでもよくなっていたけれど、せっかく汲んできたのだからと口にしかけて――
「……」
今、もしこの部屋を覗く人間がいたら、真っ赤になってコップとにらめっこしているネスティの姿が見れたかもしれない。
繰り返し、繰り返し。
見ていた悪夢から、ひとり。光を見つけられた理由は。