繰り返し、繰り返し。
見るのは悪夢か、それとも過去の忌まわしい記憶か。
立っているのは闇の中。
こちらに向けて無数に降り注ぐ、純白の羽が、無数の鈍鉄色の腕に絡めとられる。
――やめろ!!
――それは裏切りだ、それは罪なんだ!!
叫びは声にならずに闇へと消える。
そうして、純白の羽は鈍鉄色に染まり、汚濁した朱に染まり、
べたり、と、自分の頬に張り付いた。
「――ッ!!」
……夢?
額に浮いていた汗をぬぐおうとすると、感覚が麻痺するほどに強く、毛布を握り締めていたことに気がついた。
ぎち、と、骨さえきしませているような気分で、ゆっくりと、硬直しきった指をはがしていく。仰向けに寝た顔の前に、手を持ってきて、数回握っては開きを繰り返し、ようやく感覚が元に戻った。
その頃にはもう、わずかに開けていた窓から入ってくる風のせいで、すっかり汗もひいている。
だが、もう汗などどうでもよかった。
「……どうすればいい」
顔の前に持ってきた手のひらを、じっと見つめながら。こぼれる声はか細くて、すぐに夜風に溶けてゆく。
止めても無駄なことは判っていた。
弟妹弟子のことだから、一度決めたことはまず実行すると、誰よりも知っているのはこの自分。
けれど、そうさせるわけにはいかないのだと、誰よりも自分は判っている。
あの場所に眠るのは、機械遺跡。機械兵器。裏切りの記憶と罪の記憶。
禁忌の森にだけは近づけさせるなと、形相も激しく怒鳴っていた、ひとりの師範を思い出す。
あの場所に、あの一族の末裔であるふたりを向かわせた日には、おまえの命もないと思え。そうも云っていた。
――云われるまでもない、と、そう答えたのはどこの誰だったか。
自嘲気味に笑い、ふと、身体を起こした。
眠気など、さきほどまでの悪夢のせいでとっくに吹き飛んでいる。喉の渇きを解消するために、水を飲もうと階下へ向かった。
今日、初めてのことだった。――たぶん。
たしかに昨夜は床についたはずで、今朝も日の出とほぼ同時に目を覚ましたはずだったのだけれど、情けないことに今日の記憶がほとんどない。
ただ判っているのは、おそらく、一日中部屋にいたのではないかということ。
自分であのふたりにあんなことばを投げかけておきながら、それが大きな動揺を生んだのだ。それでおそらく、思考が飛んだ。だが、己の血は、そんなときでも後になって記憶を掘り下げると、余すことなくその醜態を把握している。
だからこそ情けない。
だからこそ不甲斐ない。
そのことばどおりに出来る自信など、本当は、これっぽちもありはしないというのに――
目の前は闇。
背後には罪。
自分は何処へ行けというのか。何をしろというのか。
今立っている場所からは、光など見えない。
繰り返し、繰り返し。
見るのは悪夢か、それとも過去の忌まわしき記憶か。
立っているのは闇の中。
目の前に立つ後ろ姿は、間違いもなく自分のもの。炎に囲まれて、剣をふるう己の過去の幻影。
――やめろ……
――もう、やめろ!!
叫びは声にならずに闇に消える。
救いを求めてこちらに伸ばされる無数の腕は、どれもこれも鮮血に染まり、表情は苦悶によどんでいる。
それでも、自分はそれを切り捨てた。剣を振るった。
そしてその切っ先の前に――
「――!」
ぜぇ、はぁ、と、おそらく合戦中でもここまでは乱れないだろう自分の呼吸音が、やけにうるさい。
額に張り付いた髪が鬱陶しく、乱暴に手で跳ね除けた。
天幕の隙間から漏れくる月光は、いつになく強い。指にまといついた自分の赤紫の髪の色が、判別出来るほどには。
「……夢か……」
一瞬鮮血を重ね、それを振り切るようにつぶやいた。
あれは気味の悪い夢だ。そして、けして現実になってほしくない夢だ。
だのにその可能性が、現状の中ではいちばん高いということに、吐き気さえ覚えた。
上身を起こし、頭を振って、夢の残滓を振り払う。
――ローウェン砦を落として数日後、トライドラを陥落させたという報を届けたのはキュラーだった。
その後は元老院議会の方針が確定するまで、砦付近に陣を張り待機せよとの命令も持って。
そうして、実際に自分たちは云われたとおりにこの場にいる。
議会の告げるままに動いている。
今までそうしてきたはずだった。
これからもそうしていくはずだった。
だのに、何なのだろう、この違和感。
何かの歯車が、微妙にずれだしているような、この奇妙な悪寒。
――だいじょうぶ
そう云って微笑んでくれていた、あの子は今ここにはいない。
それは判っているというのに、逢うことがあれば、それは恐らく戦いの中以外をおいてないことは判っているのに。
そのことがどうしてももどかしいと思う。
……情けない。
そう切って捨てるのは簡単。
けれど自分の心に嘘をつくなと云うなら。
今、どれほどに傍にいてほしいと思っているか。どれほど、あの笑顔を見たいと思っているか。
デグレアにあって、この軍にあって、がどれほどに自分の歩みを支えてくれていたか。
あの子のいないこの場所は、月光が、いやさ陽光が、たとえ惜しみなく降り注いでいても、ただの闇に過ぎないのだ。
目の前には闇。
背後には屈辱。
何処へ行こうというのか、何をしようというのか――
今在るこの場所からは、光など見えない。
繰り返し――見るのは、悪夢か過去の記憶か。
立つのは闇、そうして目の前には彼女。
微笑みながら伸ばされる手のひらに応えて、自分も手をのばした。
触れようとしたその刹那、まるで塵のように彼女は砕け散る。
――行ってしまうのですね?
――……貴女はいつも、微笑みながら、残酷なことをしてのける。
この手におさめたかった、鎖に縛られた彼女。
けれど微笑んでいた彼女。
鎖を砕いても、再びからめとられるため、完全にその呪縛を消滅させてしまうには、あらゆるかかわりを断ち切ってしまうこと。
そうして、自分はそう望んだうえであの行動をとったのだ。
――やめて!
――どうして……どうしてっ!!
そうして、彼女はそれをさせまいとあの選択をしたのだ。
泣いて泣いて、悲しんで。
それでも愛しいものを護るため、彼の手を振り払った。――すべて受け入れて微笑んだ、瞳の端に涙を浮かべ。
「……後悔など、していませんけれど、ね……」
誰も知らない、真実の歌。物語の一端を、たしかに自分は知っている。
けれどそれが完成するためには、彼女がいなければならない。
この己の、手の中に。
そうして初めて、歌は完成する。
物語はつむがれる。
止まったままの歌は今、再びつむがれる瞬間を待っている。
……あの人は、再び、この世界に戻ってきたのだから。
だから、
「――私の準備も、進めなければね」
さあ歌いましょう。さあつむぎましょう。
私たちの物語。
そのために。
貴女は何処へ行きますか? 貴女は何を思いますか?
今貴女の立つその場所からは、何が見えていますか――?
その夜は、実にぐっすり寝ていたのだけれど、なんだかふっと目が覚めた。
別に嫌な夢を見たわけでもないのに、妙に胸騒ぎ。
呼ばれているような、名をささやかれているような。
水でも飲んで落ち着こうと、部屋を出たときだった。
「……ん?」
数度、またたきして、目の前の人を凝視した。
まだ寝ぼけた状態で部屋を抜け出していたものだから、月明かりがあるとは云え、輪郭がおぼろげにつかめる程度。
ぎゅーっと目を閉じて、それからばちっと開いたことで、ようやく誰が立っているのか判った。
「ネスティ?」