穏やかな日だと思った。
嬉しい日だとも思ってた。
目的地は特に決めず、ふらふらと歩きながら、そう考えた。
なにしろ、気がかりだったトリスとマグナの先輩たちの無事もはっきりしたし、アグラお爺さんのコトも解決したし。
相変わらずアメルが狙われているという状況に変わりはないけれど、デグレアが本格的に聖王都への侵攻を開始した以上、黒の旅団も、そうそう頻繁にこちらに力を割くわけにはいかないだろうし。
ましてやここは聖王国のお膝元。王都の中だ。
少なくとも今日一日は。不安に思うコトなどないはずだった。
――ない、はずだったのだけど。
泣いている声がした。
「ん?」
最初は、庭園で遊んでいた子どもが不注意で転んだか何かして、泣いているのだと思ったのだ。
でも。
その声は、なんとなく聞き覚えのある声だった。
気になって声の源を近づくにつれ、なんとなくは確信に変わった。
「……トリス? マグナ?」
導きの庭園の端。入り口から死角になっているせいで、あまり人のこない一角。
そこで、トリスが泣いていた。
それをなだめようとしていつつ、マグナが自分も泣きそうになっていた。
「どうしたの!?」
「……ッ!」
慌てて駆け寄ると、気づいたトリスが、涙をぬぐいもせずにへ飛びついてきた。
その勢いに体勢を崩しかけたけれど、ここで倒れちゃ女がすたるとばかりに踏みとどまる。成功。しがみついてくる彼女に腕を回して、ぽんぽんと背中を叩いてやった。
「……どうしたの? ネスティと逢ってたんじゃないの?」
「うん、逢った」
の問いかけには、妹より一歩遅れてやってきたマグナが答える。硬い声音で。単語だけの返答を。
感情の昂ぶりを必死に抑えようとしているせいか、握り締めた手の指は真っ白だった。小刻みに震えてもいる。
「あ……、と、ケンカでも、した?」
このふたりがこんなにぼろぼろになっているのは初めて見る気がした。
その原因は――たぶんだけれど、自身がここで逢う伝言を伝えた、彼らが慕っている兄弟子なのだ、……ろうか?
まさかねと思いながら、それでも一応、訊いてみた。なるべく、他愛ない話になるように。
とたん、ぎゅぅ、と、抱きついてきていたトリスの腕に力が入る。マグナが崩れるように、の肩を掴んで頭を乗せる。
「……ケンカ……なのかな……」
「ケンカじゃないよ。たぶん」
兄妹で同じ相手と話してたんだろうに、返答は全然正反対のことば。
頭が混乱しそうなトコロに、とどめの一言が突き刺さった。
「ネスが」、
ぽつりと。
「俺たちを殺すって云った」
マグナが云った。
「……は……?」
ここで頭が真っ白になったを、いったい誰が責められようか。
そしてたしかに責める者はいなかった。
が、その第一声が皮切りになったのか、マグナとトリスはことばをつむぎだしたのだ。
「アメルを派閥に引き渡して、この件からは手を引こうって……」
「は……!?」
「俺たちが禁忌の森に関わり続けるなら、俺たちを殺して自分も死ぬって……!」
「は――――!?」
まてまてまてまてネスティさんそれは心中予告か!?
『は』しか発音できなくなった間抜けな己の口を呪いながら、は心中で叫んでいた。
っていうか貴方はそれでいいかもしれないけど、良くないわ、じゃなくて、こっちはどうなるこっちは!
アメルを引き渡しても政治の駆け引きに使われるのがオチみたいなコトを、トリスとマグナが反対したときにあんたも賛成してたでしょーが口に出してなかったけど!!
たしかに禁忌の森にいい感情は抱いてなかったみたいだけど、いったい何があの森にあるって云うんだこのやろう吐けすぐ吐け今吐けいなくてもかまわないからそのへんから生えて白状してみれー!
この間、たぶん十数秒。
とうとうマグナも耐え切れなくなったのか、つかまれている肩にさっきよりも負荷がかかったことで、怒涛のような思考回路急回転が止まった。
だけど、どうしよう。
何を云えばいいんだろう。
ことばに迷ってふたりを見、
「――――」
それに、気づいた。
今、こんなときなのに、こんなに哀しそうなのに。眼も頬も、そんなに濡れてしまってるのに。
それでも、声を出して泣かないんだね。あなたたちは。
ネスティのことばも充分衝撃だけれど、今のふたりの状態が、たぶんそれよりも辛い。
いや、ふたりはよりも年上なのだから、自制していると考えられなくもない。けれど、普段あんなに感情を出している彼らが、ことここに至ってそこまでの自制心を発揮しているとは思いづらい。
それにだ。
誰より信頼している人から、自分たちを殺すなんて云われて、それでなお自制心の働く人がいたら、見てみたいくらいである。
なのに、現実はそうじゃない。
トリスもマグナもただ黙って、の服を濡らすばかりだった。
――それが、とても哀しい。
だけど。
「……ねぇ」
声をかけると、ひっくひっくと喉を震わせながらも、トリスが頬を濡らしたままを見た。
伝う涙を指でぬぐって、そっと訊いてみる。
「……その話をしたときのネスティ――どんなだった?」
もしも、彼が彼の信念に基づいてそれを云ったのだとしたら、それをがどうこう云うコトは出来ないけれど。
だけど、ネスティ。あなたは話してくれたよね。
あなたがこのふたりをどれだけ大切にしてるか、まだほんの数ヶ月もないけれど。見てたよ。知ってるよ。
だから、信じたい。
あなたがふたりにかけたことばが、あなたの信じる何かによるためのものじゃないと。……信じたいから、信じるよ。
そうして、その問いを聞いたトリスの目が見開かれた。
肩に顔をうずめていたマグナも、はっとした表情を見せる。
これは、もしかするともしかする?
そう思いつつも、ふたりの返事を待って、は沈黙。
「……ネス、苦しそうだった」
ぽつり。
「云えるなら云うのにって」
ぽつりと。
「あ……それに」
明らかになる、それは。
「本当は、そんなことしたくないって云ってたよ……」
――ああもう、まごうことなく。
「そっか」
にっこり。笑顔。
ふたりが泣いているのに不謹慎だ、とか云うなかれ。
人間ほんとうに心がそう動いたときには、あっさり顔に出るものだ。
トリスもマグナも、さっきまでは「殺す」発言へのショックで思考が止まっていたようだけど、それに気づいたらしい今、涙はすでに止まっていた。
「じゃあさ、やっぱりネスティは何かどうしてもな事情があってそういうコト云ったんだよ、きっと」
まだ頬に残っていた水滴をぬぐってやりながら云うと、マグナはこっくりうなずいた。
「……そう、だよな」
「でもってそれは、何か知らないけど禁忌の森に関わることだよね」
「……うん」
トリスが、ぎゅぅっとにしがみついて。それから、ぱっと身体を離す。
そうしてふたりは、にっこり、笑った。
まだ涙は残っているけど、それは嘘でもつくりものでもない笑顔。
「あたし……ギブソン先輩に訊いてくる。禁忌の森のコト」
トリスがそう云って、以前、たしか蒼の派閥の機密事項だという話が出たような出なかったようなということを、もふと思い出した。
追加攻撃で、マグナもにしがみつきつつ、
「俺たち、ネスがあんなに思いつめた顔してたのに、それ、気づいてやれなかったんだ……」
バカだな、と、自嘲気味に云う彼の表情は、どこかすっきり。
「云われたことばが哀しくて、それだけでいっぱいになってた」
「いやそれは普通そんなもんだと思うけど」
殺すとか云われて平常心でいれるほど、身近な存在から与えられる死を感じて生きている人間は少ないと思う。
戦いの最中の死を覚悟はしていても、平穏な日々の死を思うコトはないと思う。
その虚を突かれたときの衝撃に襲われてなお、理性を手放さないほど強い人がいるなら、むしろこちらがお目にかかりたい。
ふと気づくと、トリスとマグナが、じっ、とこちらを見ていた。
目があった順で、に笑顔を見せてくれる。
そして唐突に、
「やっぱり強いよな。は」
「へ?」
そんなコトないよ、と云おうとしたけれど。
「ずっと一緒にいてね」
それより先に発されたトリスのことばで、また、「へ?」の繰り返しになる。
「が一緒にいると、強くなれるんだ」
「支えてもらってる感じがするの」
だから。
一緒にいてね。離れないでね。
――せめて、その繰り返す環を断ち切ることが出来るまで。
ふたりのことばに重なって、声が聞こえた。
遠く近く響く。聞こえていたのにそれまでは、全然意識に上らなかった、声。
なんだろう。この声。
優しく哀しく、遠く近く。
寄せては返すさざなみのように、一瞬だけ浮上したことばたち。その一端を、これまでも数度つかんでいたことを、ここに至って、ようやくのことで気がついた。
なんとしてでも聞きだして、ネスティが悩んでいるならどうにかするんだ!
そう意気込んで走っていくふたりを見送るの気は、だから、そぞろだった。
なんだろう。この声。
脳裏を占めるのは、そのことだけ。
遥か遠く。遥か近く。寄せては返すさざなみのように、浮かんでは消えて、消えては浮かぶ。
今手にしたのは、そのたったひと欠片。
だけどそれは、もうずっと前から、に語りかけていた。記憶。
だけどそれは、に向けてのことばではないと。
どうしてだろう。判ってしまう。
「……あたしは、あたしだよね……?」
周りにはもう誰もいない、導きの庭園の片隅でつぶやかれたことばは、そのまま、風に溶け消える。
手にしたひと欠片も、わずかな違和感を残して、すでに跡形さえない。
――…………
もう判らない。
だけど、違うよ。
――あたしは。今のあたしは『』でしょう?
云い知れない奇妙な感覚に包まれたまま放心し、どれほどの時間が経ったのか。
「じゃないか。何してるんだい?」
不意に聞きなれた声がして、は我に返った。
「あ――モーリン」
どうやら、トレーニングは欠かさない主義らしい。軽くランニングでもしていたのか、いつも羽織っているロングコートを腰に巻いたモーリンが、ちょうど庭園を通りかかってを見つけていた。
軽やかな足取りとことばに、ふわりと気持ちが上昇するのが判る。
名前を呼んでくれた。
あたしの名前。
。
「ちょっと」、
問いに応えるべく、笑った。
「トリスたちと逢って話してたんだ」
「へえ? で、そのふたりは?」
「なんかギブソンさんに話しに行くって行っちゃった」
「なんだい、そりゃ?」
あんたも鉄砲玉みたいだと思ってたけど、あのふたりも負けてないね。
そう云って、モーリンが笑う。
も笑う。
ひとしきり、そうしていたけれど、やがて笑いつかれて。ふたりは、整えられた芝生の上に寝転んだ。
「まぁここんところ色々あったせいかね。体力はともかく、精神的につかれてる奴らが多いよ」
「モーリン、そういうの判るんだ?」
そういえば最初に逢ったときも、ネスティの隠していた怪我を一発で見破っていたような。
問えばそのとおり、だいたいは気で判るもんだよ、と明るい返事。
「特にトリスとマグナなんかね? けっこう重い決断を何度も繰り返してきてるせいかな。あの子たちの旅だからしょうがないけど」
「……あ……」
「何があったのか知らないけど、あのふたりもいろいろ、重圧を感じててもおかしくないさ」
「……えっと、どうしてそう思うの……?」
問うと、モーリンがこちらを見る気配がした。
は相変わらず、空を見上げたままでいたけれど、
「服が濡れてるよ。?」
示されて。どきっとして、さっきトリスとマグナがしがみついていた部分の服を押さえた。
青空を背景にして、モーリンの顔が、寝転んでいるの真上に出現する。
ちょっと固めの、薄い金色の髪の毛が、さらりとの頬をくすぐった。
ぱちん。
明るい色の瞳が、片目を閉じる。ウインク。
そしてモーリンは云った。
「ここしばらくは王都にいるんだろ? ――あの兄妹誘って、ちょいと羽伸ばしてきたらどうだい?」