すべてを話したことで、過去を思い出し心が痛みを訴えたのだろうか。
疲れた様子のアグラバインのために、傍にいるというアメルを残して、たちはそれぞれ、家の外に出ていた。
旅の支度をするも、のんびりするも、各人の自由。
――ではあったのだけれど。
「ネスティ」
先ほどまでの、アグラバインに対する行き過ぎとも思えるくらいの態度が、どうしても腑に落ちなかった。
だからしては、ちょうど、みんなから離れた場所にいたのをいいことに、何をするでもなくそこを歩いていた彼をとっつかまえたのである。
「なんだ?」
普段と変わりなく、彼は応える。
だけど、なんとなく感じている違和感。
アグラバインに向けていた、あの厳しい目は今は消えてしまっているけど。
「……ちょっと、きて」
ココで話しても良かったのだけど、誰かがこないとも限らないから、ぐいっとネスティの腕を引っ張った。
そのまま、ずりずりとアグラバインの家から離れた場所に引きずって行く。
あまり木のない、割りと開けた場所に辿り着いてから、ようやっと腕を放して、じっとネスティを見上げた。
「どうかしたのか? こんな処に引っ張ってきて」
なんでもないように云っているけれど、口調が平坦に過ぎる気がしてならない。
なんていうか、普段のネスティなら、こんなふうに無理矢理引きずってこられたら、まず絶対に抵抗していたと思うのに、それさえなかったし。
おかげで引っ張ってくるのは楽だったが。
ともあれ、と。まずは遠まわしに訊いてみる。
「……何かあったの?」
「何もないが」
抽象的な問いには、即行で抽象的な返事が返された。流石。
だけどそれを鵜呑みにしてそのまま流してしまうほど、鈍いつもりも諦めがいいつもりも、だってない。
「アグラお爺さんに怒ってるでしょ。どうして?」
まわりくどく訊いても、たぶんのらりくらりかわされるだけだと思ったから、直球で尋ねてみた。
すると見事に予想通り、ネスティの身体がぴくりとひきつる。
ポーカーフェイス得意そうな割に、たぶん、ずばっと核心を突かれると動揺が一気に外に出るタイプだ。たぶん。こういう性格の人は、勘が鋭い人にはよく負けるもんである。
いや、が勘が鋭いわけではないのだけど。どっちだよ。
いや、むしろマグナあたりならわんこの嗅覚で。いやそれはどうでもいいから。
どうやら沈黙でもってこの場を切り抜けるコトにしたらしいネスティが、顔の向きを変えて、視線をからそらそうとした。
だが、ここまできといてそれはさせてなるか、というものだ。
「ネスティ」
がしっ、と。
彼が動くより先に、ぐっと背伸びして両手で顔をはさみこんだ。
「ずーっと眉間にシワ寄せてるとね、きれいな顔が台無しだよ」
「……」
うむ逆効果。シワが深くなった。
「……男がきれいだと云われて嬉しがると思うか……?」
「きれいな人は目の保養。男女問わずにね」
「問うてくれ」
脱力しきって、けれど諦めているのか、ネスティは視線だけ動かして逃げようというような真似はしなかった。
代わりに小さく苦笑すると、自分の手を、のそれにかぶせるように動かす。
ふぅ、と。
こぼされたため息が、の耳に届いた。
届くか届かないか。そんなのはどうでもよく、ただ、思いが声になったのか。
ゆっくりと、小さなこどもに云い聞かせるように、ネスティはことばをつむいでいた。
「本当に、なんでもないよ。君に関わらせていいことではないから……話せることでもないから、云えないだけなんだ」
心配してくれているのは判る。
どうにかしてくれようと思っているのは判る。
だけどこれはこの子には関係ないことだ。彼らにも関係ないことだ。自分だけが抱いていればいいことだ。
――すべてのきっかけがあの老人にあると知ったとき、どれだけの黒い感情がこの身を苛んだかなど、この子には関係ない。
関係なく、在ってほしい。
この子は。ただ、笑っていてくれればいい。それが嬉しい。
春の陽だまりみたいに笑う、と、いつかマグナとトリスが評して、同じく幸せそうに微笑んでいたように。
その笑みに少なからずとも救われている自分が、たしかにいるのだ。
「たぶんこんなことを話したら、君はもう笑ってくれなくなる……」
だから、話したくない。知られたくない。
それは罪の記憶。裏切りの記憶。
連綿とこの血に受け継がれてきた、遥か遠い、罪。
けれど。
は不思議そうな顔をして、ちょっと、首を傾げるとこう云った。
「アグラお爺さんのこと、憎い?」
「……え?」
問いかけてみると、まさかそういうことを訊かれるとは予測していなかったと云いたげな表情で、ネスティの返事が返ってきた。
……外れたかな?
思いつつも、もう少しだけつづけてみる。
「憎いって云うのは大げさかな。でも、怒ってるよね?」
大事な弟弟子と妹弟子が、明日の命すら知れない旅に身を投じることになったのだから、怒りを覚えるのは兄弟子として当然かもしれない。
だが、それを差し引いても、から見たネスティの態度は硬化しまくってるような気がした。そして、そんな問題ではない何かを、抱えているからこそのあの態度じゃないかという気もした。
じっとネスティを見る。
寂しい色だ。マグナとトリスにもいつか感じた、孤独の色。
だけどあのふたりには、血を分けた兄弟がいる。そのことが、まだ救いになってると思う。
でも、ネスティはどうだろう。
どこか一線を引いているような彼の態度は、他人への関心が乏しいというだけではなくて、関りたくないのだと云っているように思えるのだ。――拒絶、しているようにさえも。
世界に自分はひとりきりなのだと、比喩でなく例えでなく、そう感じてる、ような。
「……」
そうして見ているうちに、とうとう根負けしたんだろう。
ゆっくりとの手を放させて、こくり、と、ネスティは首を上下させる。
「そうだよ」
「うん?」
緩慢な動作とことば。
「……彼の過去があんなものでなかったら、こんなことにはならなかったかもしれないと、思ったんだ」
「うん」
だけども急かさず、ただ頷く。
「僕は罪を犯している。正確には罪の記憶を持っている……ずっとずっと昔から継がれてきた、消えない罪だ」
「うん」
「隠していけると思っていたんだ……僕は最後のひとりだから、僕が絶えればもう知る者はいなくなる」
「うん」
「それが逃げられないものだとしても、せめてマグナとトリスは巻き込みたくなかった……」
「……うん」
あやふやというか、あいまいというか。
ネスティのことばには、説明不足な部分が多すぎた。それで窺い知れるのは、の知らない彼の重荷の、ほんの一端。氷山の一角。
だけど、はっきり判ることもある。
それはいつかも思ったことだったけれど、
「ネスティは、マグナとトリスが本当に大事なんだね」
「……前にもそう云っていたな」
思ったそのまま告げたのことばに、わずかだけれど、ネスティが口の端を持ち上げてみせた。
ようやく見せてくれた表情のほころびに、の方が安堵してしまう。
笑っていればいい、ってネスティは云うけれど。
それはあたしだけじゃなくて、貴方にだってみんなにだって云えることなんだろうって思うよ。
「だって、そう見えるよ」
首をかしげて返答すれば、ネスティの笑みが深くなる。だけどそれは、の安心をくつがえす、自嘲を含んだ笑みだった。
だが、と。
声としては聞こえなかったけれど、彼の唇は、たしかにそう動いた。
「最初にあの二人に逢った頃、僕は彼らを憎んでいたんだ」
「……ネスティ……!?」
あわてた。
忙しなく、今自分たちの周りに人の気配がないことを、確認してしまった。
だってこんなコト、聞かせられない。
ネスティのことを心から信頼している、あのふたりが聞いてしまったら。聞かせるわけにはいかない。
幸いにもこちらへ注意を払っている者はおらず、安堵したの一連の仕草に気づいているのかどうか、ネスティはことばをつづけていた。
「あの二人は何も知らされずに育てられた。罪の記憶を全部持っていた僕と違って、普通に、平穏に……」
それが自分たちの養い親の思いやりだと判っていたし、自分もこの特殊な血筋による記憶の伝承がなければきっと、同じように育てられたのかも知れないけれど。
まだ幼かった心には、そこまでを汲み取ることは出来なかった。
「どうして僕だけが、と。どうして彼らは、と」
「うん」
肝心なところは伝えていないからか、から返ってくる返事はそれしかない。
だけどそれでもいい。
聞いてくれる相手がいるという、ただそのことが、どれだけ自分の心を軽くしてくれるか実感している。
「そのままだったら、きっと、僕は彼らへの感情を変えることもなかったのかもしれないが……」
思い出すのは幼い頃の記憶。
あのふたりはきっと覚えていないだろう、遠い、遠い昔の記憶。
「たしか派閥の中庭を歩いていたときだったか。マグナがいきなり、紙を丸めたやつで人の頭を叩いてきて」
「は?」
唐突な展開に、が目を丸くした。
「こちらも子供だったからそれなりにムキになって、やり返したらやり返された。そのうち、どこから出てきたのかトリスまで加わって、最後には3人で中庭に転がる羽目になったんだ」
やはり子供だからと甘く見てもらえるはずもなく、彼らは散々怒られた。
マグナとトリスは怒られ慣れているようだったけれど、努めて優秀でいようとしたネスティにとっては初めてのことだった。
本当なら、それまで以上に悪い印象を持っても当然だったのだけれど、
「それから部屋に帰ろうと別れたとき、ふたりはなんて云ったと思う?」
首をかしげて先を促すの目に、苦笑するネスティが映っている。やわらかく微笑んでいるそれは、だけど、誰なのだろうか。益体もないことを考えた。
「『ずっと本読んでばかりで身体を動かさないから、どんどん嫌なことを考えてしかめっつらになっちゃうんだ』……だと」
それでケンカを売って、否応でも運動――というにはちょっとアレだが――せざるを得ないようにした、というわけらしい。
自分に毛嫌いされているのを知らなかったわけでもなかろうに、それでも彼らは心配してくれていたのだと、そう判った。
そのときのトリスとマグナは、めいっぱい怒られた直後だというのに胸を張って堂々としていた。これぞ正道だと、なんら恥じることはないと。
その様子と、いかにも子供らしい理由に呆気にとられて、
「あ、判った」
ぽん、とが手を叩く。
「出たんでしょ。『君たちはバカか』って」
「……ご名答」
苦笑深めて、答える。
そうしてそれから、なんとなしに、ふたりはネスティにかまいついてくるようになったのだ。
一緒にいるようになったせいか、あのふたりの不始末の責任の一端が、図らずも自分にまで及ぶようになって、たまに後始末などさせられたりもするようになった。
たしかに迷惑ではあったけれど、いや、迷惑以外のなにものでもなかったけれど、受け入れている自分がいたのだ。
そうしているうちに、それでいいと思えるようになった。
自分はもう、闇から抜けられないけれど、何も知らないふたりだけは、このまま真っ直ぐに育ってほしいと。
兄弟子としてのそれでなく、ほんとうに、弟や妹を想うように。
「……だから」、
零した声は苦渋に満ちる。
「今さら……こんなことになるなんて思わなかったんだ」
レルム村が炎に包まれたとき、黒の旅団に襲撃されたとき。まだそんなこと、考えてもいなかった。
不安が一気に色濃くなったのは、ルウと出逢い、そこが禁忌の森だと知ったときだ。
アメルが禁忌の森の結界を壊した、あの瞬間。
揃ってしまったのだと直感した。感じた。
互いが互いを罪で縛り上げる形となった、三角形のすべての要素。
それがそのとき、その場にすべてあったのだと――
なにもかもがとどめようのない勢いで流れ出したことを、悟りたくはなかったけれど悟っていた。
すべてが白日に曝される日がこようとしていることを、
「このまま、ふたりが進むというなら」
今も強く、予感している。
「――ネスティ」
「…………」
救いを求めるように、目の前の、をかき抱いた。
伝わってくる人肌のあたたかさに、かすかな安堵を覚えながらも、一度堰を切ったことばは、もう留まるところを知らずに、奔流となって続きを形づくろうとした。
「……僕は――」
「あ! ふたりとも見つけたー!!」
ばっ!!
不意に聞こえてきたトリスの声に、それまでの空気が一気に霧散。
とネスティは同時にお互いを突き飛ばし、会話していたとき以上の距離をとった。
「……お邪魔だった?」
トリスがそう云って、近寄ってくる。
口調だけは神妙だけど、お姉さん、顔が笑ってます。
「そんなんじゃない」
さっきまでの、つつけば割れてしまいそうな、硝子にも似た脆さはドコへやら――すっかりいつもの表情に戻ったネスティが、むっとした顔で否定する。
ならばとばかりに、も後押し。いや、お邪魔だったのはお邪魔だけれど、それはまったく別の意味だし。
「久しぶりに召喚術してみようと思って、ネスティに頼んでたんだ」
「じゃあなんで抱きついてたの?」
「でっかいハチが飛んできたから怖くてつい乙女モードが発動しちゃった」
「あぁ、このへん山だから多いもんねー」
すさまじい棒読みにもかかわらず、あっさり納得してくれるトリスに感謝。
だがふと彼女は我に返り、
「……ていうか乙女モードって何?」
「うん、それは、世の女性に仕込まれた乙女回路の乙女ゲージが満タンになると発動する乙女チックなモードなのだよトリスくん。ちなみにゲージの溜まり具合は人それぞれで、あたしは今のでこれまでの人生で溜めた分が消えた」
「……」
笑顔のまま硬直したトリスと、どこか不安そうになったネスティが、同時にの額へ手を当てた。
「失礼な」
「あのさ、」
「ん?」
てっきりあれだ、疲れてるなら寝とくかと云われるかと思ったが、
「ゲージ溜めるの早められない? えっと、ほら、兄さんとかネスとかさ、そういうの必要かもしれないし……」
「はい?」
――信じたのかトリス。
「トリスもういいむしろ君が寝ておけ」
「え、なんで!? だって今のモードならバッチリ問題なし進展ブラボーだよ!?」
「はははははは」
すっかり問題がすりかわってる兄妹弟子を見るは、乾いた笑いをこぼしていた。
いやまあ実際、山を登ってくる途中でハチの巣を見かけていたから、さっきの嘘はさらっと出てくれた。……嘘をつくことにあまり良い気分はしなかったけど。ついでに、妙なもんまで出てきたけど。
だけど、である。
ほっとしたようなネスティの表情に、それで良かったんだと思えてしまった。
彼のことばの先は、気になってはいたけれど。
そんでもって脱線した兄妹弟子のやりとりも、しばらくして打ち切られる。
「そうだ、。召喚術ならあたしも見ててあげるから、今何かやってみる?」
どうやら、結局、全然、微塵たりともこちらのセリフを疑ってないらしいトリスが、にこにこしながら、懐に手を入れてサモナイト石を取り出した。
だがは、石を認めると同時に、「え」とうめいて後ずさる。
それは、まだ誓約されていない、無属性のサモナイト石だ。
というか、召喚術どうのっていうのははっきり云ってその場しのぎだったわけなんですが。
いつぞやテテ喚ぼうとして槍を喚んでしまった経歴持ちの身としては、あんまり関わりたくないなーっていうのが本音なわけなんですが。
どうしたものかと思っていると、ネスティの手が、ひょいっとそのサモナイト石をトリスから取り上げた。
「人のことをどうこう云う前に君はどうなんだ? 毎日の課題はちゃんとやっているんだろうな?」
「え? あ、あはははは」
「……どうなんだ?」
苦し紛れに笑いでごまかそうとしているトリスを、とってつけたような笑顔で追い詰めるネスティ。
あぁ、なんていうかとても先輩後輩って感じですお二方。
おかげで話はまたまたそれて、の召喚術どうのこうのはトリスとマグナの課題の前に消え去った。
さっきとは逆に、ネスティに感謝の視線を送ると、彼は目だけでこちらを見て、ちょっとだけ笑ってくれた。
それは、いつもどおりのネスティの笑顔。
だから、安心してしまったのだけど――