デグレア特務部隊・黒の旅団――
レルム村侵攻に際しての本陣は、聖女捕獲の作戦失敗と同時に撤退。
現在は国境近くに陣を敷き、本国からの伝達待ち。
「……ふむ」
伝令からの文書を読み終えて、レイムはひっそりと微笑んだ。
予想通りと云うか、そこにのことは一文字たりとも書かれていない。
ただ事務的に作戦の結果と、聖女を保護した一行がゼラム方面へ逃げたことを突き止めたこと。
それから今後に対する指示の要望。及び、何か動きがあるまでは少数が王都を監視。機会があれば聖女捕獲のために動くこと。
――等が、淡々と綴られていた。
ひととおりそれを読み終えて、傍に控えていたキュラーとガレアノに、読むように促す。
「てっきり、すぐにもの奪回を命じられると思っておりましたが……」
同じように目を通しながら、得心がいかないらしいキュラーが問う。
「ええ、ビーニャからの報告を聞いたときには、私もそうしようと思ったのですがね」
窓辺に寄り、久々に晴れたデグレアの空を見ながら、
「ですがさんは記憶をなくし、しかも聖女たちに手なずけられたと云うではありませんか」
動物扱いですか。
本人が聞いてれば、間違いなくそう嘆く。
「そこで無理にさらってきても、怯えられるだけでしょうし」
もうあの愛くるしすぎて思わず接吻したくなる笑顔も、見せてくれることがなくなってしまうでしょうし。
そうなってしまったら、いずれ訪れるさんとのヴァージン・ロードも霧となり、霞となってしまうでしょう。
「それだけは、耐えられるものではありません――……」
そもそも訪れんから耐えるな。そして儚げにつぶやくな。
けれど。納得のいかなさそうなキュラーが云いつのる。
というか、万一アテが外れてレイムが不機嫌になったとき、真っ先に当たられるのは自分なのだ。
憂いは絶つに限る。いわゆる保身というやつだ。
「しかし、今はルヴァイドたちの元にいると、手の者は云っておりましたが?」
あのとき。
イオスは確かに、周囲に魔獣の気配がないことを確かめてから、に手を差し出した。
その判断は間違ってはいなかった――けれど、誤算があった。
彼が目にしたことのあるビーニャの魔獣たちはどれもこれも殺気びしばし気配ばりばりで、とても気配を隠すような器用な奴らがいるとは思えなかったのだ。
実際ビーニャが見せつけるように、彼らの天幕から出た後に放ったものたちも、例に漏れず。
だから気づかなかった。
キュラーが己の手駒を――気配を消して存在さえも完全に穏行させることの出来る、シルターンのシノビを数人紛れ込ませていたことなど、気づけなかったのだ。
策は常に、二重三重にしかけることに意味がある。
ルヴァイドたちにとっては、ほんとうに、ほんっとうにいい迷惑だが。
「まぁ……これも良い機会かもしれません」
強い力は、より強い力を導き出す足がかりになる。
「しばらくは聖女たちのもとに置いておきましょう。ルヴァイドたちもおそらく、そう判断を下すはずです」
調律者、融機人、聖女。
誰にでも通じるわけではない単語をつぶやき、ひとつごとに指折り数えるレイム。
「強き魔力によってまた、彼女の魂に眠る真のそれが、目を覚ますかもしれません」
記憶をなくした今。
自分は異世界の人間という、無意識にかけていた枷をが感じていない今なら。
その分可能性は高くなっているはずだと。
いつか隠し撮りさせたの写真を切なげに見つめながら、レイムはそっと、そう告げる。
かっこついてませんレイム様。
だまらっしゃい。
同僚と上司の無言の攻防――具体的に云うならば竪琴アタックと真剣竪琴取り――を目の当たりにし、ガレアノは遠い目で立ち尽くしていた。合掌。
一方こちらは、当の黒の旅団の本陣である。
「……えーと」
先日炎に巻き込まれながら、結局イオスについていくことを選んだは、困っていた。
とってもとっても、困っていた。
何に困っているかというと、
「焦〜げ〜て〜る〜〜」
ロッカとアメルから借りていた服が、ものの見事に焦げていたのだ。
たしかに炎の中、悠長に会話してた自分が悪いんだけど、こんなばばーんと焦げなくたっていいんじゃなかろうか……ッ!?
正確には、長時間炎にいぶされていたような形だったので、服のあちらこちらが変色したあげく、煤がこびりつき取れなくなっていたのであるが。
さすがに本来の意味での『焦げる』ならいくらでも気づく。
たぶん。
昨夜は気にもしなかったが、湯浴みしろと天幕のひとつに放り込まれ、さっぱりしてから服を見ると、袖を通すのがためらわれてしまって。
だけど他に服はない。
だけど着るのはちょっと、いや、かなり抵抗がある。
外が白んできたのを横目に、はバスタオル一枚で延々と悩んでいた。そこに、
「入るぞ」
「はい?」
唐突に天幕の布がめくられ、昨夜に手を差し伸べた青年が入ってきて、
「……!!」
立ち尽くした。
「どうかしました?」
「どうかしましたじゃないだろう、服を着ろ、服をッ!!」
真っ赤になってがなる青年を見て、も自分のいでたちを改めて見下ろす――までもない。
バスタオル一枚裸体に巻いて、座り込んでいる以外に何がある。
「だって、服が……」
相手の動揺なんぞ何処吹く風で、は服を青年に示す。
どうしてだろうか、異性に裸体もとい寸前を見られているというのに、あまり羞恥を感じない。
……露出狂のケがあったのか、記憶喪失前のあたし。
なんだか記憶を取り戻したくなくなりそうな想像が浮かぶが、それはないだろう、と、同時に生まれる否定。
むしろの感覚としては、例えるなら風呂上りで家族の前にいるようなものだった。
どうして、この初対面の――しかも親切なあの人たちの村をめちゃくちゃにした相手にそう思うのかは、当然わからなかったけど。
とにかく。
焦げ焦げ、ぐしゃぐしゃのそれを見て、イオスもようやっと得心がいったらしい。
小さく息をつくと、なるべくの方を見ないようにしているのがありありと判るながらも近づいて、服を取り上げる。
「何か持ってきてやるから、そこの毛布にでも包まってるといい。風邪をひく」
「あ。あー、はい。ありがとうございます、お兄さん」
ぺこりと頭を下げて、はそそくさと毛布に包まって。
それを見て、イオスがさらにため息をつく。
けれど、これ以上何かを云っても時間の無駄だと悟ったのか、くるりと背を向けて天幕を出て行こうとした。
その背中に、の声がかかる。
「あの、お兄さん」
「なんだ?」
「あなたはあたしの名前を知ってるけど、あたしはあなたの名前をまだ知らないんだけど」
嘘もなく虚偽もなく。
心底そう思っているのことばに、イオスは正直泣きたくなった。
胸が痛い。
傍にいることが当たり前だった人に、自分の存在を忘れられるというのは、こんなにも辛いものだったのか。
「……イオス、だ。」
僕の名前は、イオス。
ぎゅ、と。
固く固く、一度だけ目を閉じてイオスはそれだけを告げると、もう振り返りもせずにその場を後にした。
だから、彼は知らない。
イオスの名をその耳にとらえたが、奇妙な既視感を覚えて首を傾げたことを。
それから数度――自覚しているいないはともかく、何か大事なものを包み込むように、イオスの名を繰り返していたことを。
「イオス……」
最後にもう一度だけ唱えて、は唇に指を添え、考える。
優しい気持ち。
懐かしい想い。
昨夜の黒騎士に感じたそれを、今の青年からもたしかに感じたことだけは、はっきりと自覚している。
たとえ何が判らなくても、自身の奥深くがそれを告げていた。
だからこそ、戸惑う。
アメルたちの、双子とおじいさんの暮らす村を、ココにいるやつらは滅茶苦茶にした。
無抵抗の人たちも殺した。
関係のない大勢の人々が、たったひとりの聖女を手に入れるためだけに殺された。
炎を放ち逃げ道を断ち――そうしてすべてが失われたのだ、たった一晩の間に!
許せないと思った。
およそ考えられる手段のなかで、一番残酷な手段を用いた彼らを許せないと。
今、胸に凝る冷たいものを、否定など出来ようはずもなかったし、するつもりもなかった。
けれど戸惑う。
名前を知られてたから、だけじゃない。
心のどこかが告げる。訴えている。
思慕と愛しさを。何よりも大切にしていた想いを。
願う。切に。
記憶を。この手のひらから零れ落ちた記憶の、ほんの欠片でもいい。取り戻したい。
あたしの立つ場所、あたしが居る場所は。
――あたしは。
「」
ぐるぐると、うずまく、まったく正反対の感情に飲み込まれそうになったの思考を断ち切ったのは、やはりというか。
服をとってくると云って出て行き、そうして戻ってきたイオスだった。
「ほら」
ちゃんとが受け取れるように投げてくれた服をキャッチして、広げる。
紫を基調とした服――イオスのそれとなんとなく似ているけれど、服のフォルムを見るに、仕立てはどうやら女性用らしい。
とりあえずはそれまでの思考をいったん鎮めると、礼を云って、それに着替えた。
「あ、ぴったり」
似合う似合う?
そう訊いてくる少女に向けて、イオスは苦笑とともに頷いてみせる。
サイズに差異がないのも当然。似合うのも当然。
何しろそれは、軍の荷車に積んだままにしてあった、本人の服なのだから。
あまり考えたくない事態ではあったが、ようやく認める決心がついた。
記憶喪失。
何があったのかは知らないが、レルム村のあたりで記憶をなくし、そうして聖女の家に身を寄せていたのだろう。
ふう、と、ひとつ。彼女に気づかれぬ程度に、息をつく。
――少し安心した。
イオスの目の前で、いそいそと。服が似合うと云われた嬉しさからか、ほんのりと笑顔を浮かべ、ぼろぼろになった服をたたんでいる。
記憶がなくても、彼女の本質は、変わっていないように思えたから。
「ねえ」
「うん?」
のんびりとしたの声が、天幕に響く。
つられるように、ゆったりと声を返したイオスを、
「あたしは、何なの?」
黒い瞳が、真っ直ぐに見つめていた。