どんな悩みがあったのか、と云われたら、首をかしげてしまう。
ない、って云ったら嘘になるけど、悩みってほどのものなのか、それでまず悩んでしまうから。
彼らがその日出逢ったきっかけは、本当に些細なこと。
「あ、新堂くん」
「あれっ、樋口。図書委員は?」
新堂くんこそ、部活は?
ついさっき、後輩と話していた人物とお互い遭遇した綾と勇人は、心なしくすぐったい気持ちで声をかけた。
「私、今日は当番じゃないから」
「部活、こないだの大会で優勝したから、今日は休養しろって」
なんとなく、相手の隣を歩きながら、他愛ない話に花を咲かせる。
小学中学と同じ校区だったため、比較的家が近所なのだ。
小学校の頃から同じ学校だった相手は、少ないようで多い。ふたりにとって、相手はそれだけの関係じゃないけれど。ひとつ年下の友人をはさんで、何かと顔を合わせることが多かった。その子がいない今でも、出逢えばこうして会話もする。
――そうして。
やってくる彼らに気づいたのは、勇人だった。
「あ」
「え?」
不意に顔をあげた勇人を追い、綾がそちらに視線を向ける。
オレンジの混じり始めた住宅街の道、その向かい側から歩いてくる人影ふたつ。
「――やっぱり、深崎だ!」
おーい! と大きく手を振る勇人に、相手も気づいたらしい。
ゆっくり片手を持ち上げて、足も少し速めたようだ。
「お友達ですか?」
「んー、ていうか、出張試合に行ったときに知り合った」
自販機でジュース買おうと思ったら、サイフ忘れててさ。通りすがった深崎に貸してもらったんだよ。
「新堂くんったら……」
小さく笑い、綾はふと、その隣にいるショートカットの少女に目を向け――
ぱ、と顔をほころばせる。
「夏美ちゃん!」
「あーっ、やっぱり綾だ!」
もうかなり近くまで来ていたため、ショートカットの少女は小走りに駆け出し、綾の目の前まですぐにやってきた。
茶色の髪が、夕陽に照らされて橙色に染まっている。
頬が赤いのもそのせいだろうか。それとも走ったから?
「橋本、知り合いか?」
追いついてきた深崎という少年が、綾が夏美と呼んだ少女にそう問いかける。
「うん! 前に、ちょうどこんな感じですれ違ってさ」
「夏美ちゃん、十字鉄線に制服のスカートひっかけて破いちゃったんです。それで、針と糸があったから繕ってあげたんですよ」
「それで友達になったんだ。綾がいてほんっと助かったー」
「な、夏美ちゃん……」
親愛の情を示すため、がばっと抱きついてきた夏美に一瞬うろたえて、それでも綾は口の端を弛ませる。
女子同士の特権ともいえるそんな光景を眺めていた勇人と籐矢は、
(俺らもまざる?)
(寝言は寝て云え)
……と、視線で会話していたのだった。
せっかくだから少し話して行こうよ、と、彼らが向かったのは、歩いて数分のところにある小ぢんまりした公園。
もう夕食時だからなのか、普段なら必ず数組はいる、お子様連れの母親たちの姿は見えない。
先ほど、最後の子供たちが親に呼ばれて公園を出て行った。
それと殆ど行き違いのようにして、彼らは公園に入り、思い思いの場所に落ち着いた。
綾はベンチ、籐矢はジャングルジムに背をもたせ、夏美はブランコ、勇人はそのブランコの周囲にある手すり。
「……ねえ、あんたたちって、高校、どう?」
途中自販機で購入したジュースを口に運びつつ、そう切り出したのは夏美だった。
「あ、新堂とか深崎は部活で青春してるんだっけ?」
「いや……どうかな」
「え?」
てっきり頷くと思っていた籐矢の、少し遠まわしな否定に、綾が小さく首をかしげる。
さらに少女ふたりを驚かせたのは、続いて勇人も頷いたからだ。
「ケンタイキっつーのかな……なんかこう、疲れてきたっていうか」
「でも、この間優勝したって……」
部活楽しくないんですか?
「あーいや、部活は楽しい! うん! 俺バスケ好きだし!」
綾のことばには、幸い、すかさず否定が返ってくる。
ただ、「でもなあ」がそのあとに続いたけど。
「なんだろ……うまく云えないんだけど、ちょっと気ィ抜いたりするときに、ふわって何かが抜ける感じっていうかさ」
おかしいかな、俺。
そう続けようとした勇人は、照れ笑いの形をつくろうとした顔と、頭にやろうとした手を同時に止めた。
自分以外の3人が3人とも、やけに真剣な表情で勇人を見て頷いていたからだ。
「そうなのよねー。マンネリ? っていうのかな。毎日同じことの繰り返しでさ」
起きて学校行って部活して、友達と遊んで帰ってご飯食べて寝て、起きて……
一日の行動を指折り数える夏美。
「それが平和ってことなのかもしれません……こんなことで悩むの、贅沢なのかもしれないけど……」
でも、やっぱり、ふと考えちゃうんですよね――小さく綾がため息をつく。
「1年のときと違って、学校に馴染んで授業にも余裕が出てくる時期だからな。いろいろ考えてしまうのかもしれない」
目を伏せ、竹刀の入った袋で軽く肩を叩き、籐矢がつぶやいた。
――このままで、いいのかな、って
――思うときが、あるんだ
そう、誰かがつぶやいた。
誰のものともつかないそれは、風に乗って全員の耳へ届く。
同意のため、やはり、全員が頷こうとした。
“たすけてくれ……”
「……はい?」
きょとん、と綾が首をかしげた。
“……誰か……”
「え?」
ぱっ、と夏美が空を見上げる。もちろん、何もない。
“たすけて……”
「なんだなんだ?」
周囲を見渡した勇人の目にも、自分たち4人以外映らない。
“止めさせて――”
「なんだ、いったい……」
竹刀入れの紐を解きながら、籐矢も不審な色を隠せない。
“誰か”
そんな4人の様子などお構いなしに、それは、4人の耳に響きつづける。
最初はか細かったそれは、だんだんと大きくなる。
ささやき声かと思われたそれは、繰り返されるうちに、そんなものではなかったのだと思い知らされた。
それは。
“たすけて!!”
『ッ!?』
それは、叫びだった。
誰の声ともつかない、聞いたこともない誰かの声。
何を助けろと云うのか、どこから響いてくるのか。
何も、何も判らなくても、ただそれだけは察することが出来た。
“このままではすべてが壊れてしまう”
――このままで、いいのかなって
さきほど零れた誰かの声が、何故かフィードバックする。
――思うときが、あるんだ
“何もかも、失われてしまう”
「誰だ!!」
音の出所を探るのを諦め、勇人がそう声を張り上げた。
“たすけて”
“誰か止めて”
“助けて……!!”
ガァン、と、まるで鈍器で頭を殴られたような衝撃。
ただただ、それだけを叩きつける強い感情――叫び。
耐え切れず、彼らは耳を押さえた。
押さえた手さえ突き抜けて響く衝撃に、まず綾と夏美が崩れ落ちた。
「樋口!」
「橋本……!」
完全に意識を失ったふたりに呼びかける、勇人と籐矢の声にもすでに力は感じられない。
さほど間をおかずして、彼らも意識を失い――失う、その刹那に。
視界を灼く、色のない光を、たしかに彼らは、見たような気がして。
・・・そうして彼らが気がついたとき、そこは巨大な穴の底。
荒野の只中につくられた、大規模な儀式の残滓在る場所。
これが彼らの、物語のはじまりだった。