ありがたく休ませていただくために台所を後にするとバルレルの背中を、早速食事の支度をはじめたリプレたちが発する賑やかな声が追いかけてくる。
マスター、マスター、と連呼してるのは、健気にも「お手伝いしますの!」と残ったモナティの声だ。
部屋の扉をくぐる寸前、最後に聞こえた皿の割れる音と叫び声はとりあえず遮断して、はベッドに飛び込んだ。
「審判だけじゃなくて、何かパフォーマンスすればよかったのに」
さんざ神経体力すり減らしたのは事実だが、終わってみれば、心地好い疲労感が残るばかり。
だもんでついそんなセリフが出たのだが、バルレルは、「冗談じゃねえ」と、それをばっさり切り捨てた。
「ニンゲンに媚売るようなマネなんか、できるかよ」
どうしても何かやれってんなら、この街が煤と灰になるくれえは覚悟してもらわねーとな。
何をやる気だ、狂嵐の魔公子。
「いやいいです。何もしないで」
「ケ。最初からそう云やいいんだよ」
どうせ夕食にも出向くからか、青年姿を維持したまま、バルレルは床に足を投げ出した。
頭は、が寝転んでるベッドにもたせかけて。
無意識なのか、ぱたぱた動く尻尾が妙にぷりちー。云ったら刺されそうだが。
「つーか、なんかすっかり馴染んでんな」
ぽつりとバルレルがつぶやいたのは、ガシャーン、という皿破砕音が3つ目を数えたとき。
そのたびに聞こえる「ごめんなさいですの〜!」な叫びは、とりあえず聞かなかったことにしてあげよう。
「……だって、ここも居心地いいんだよねえ」
綾姉ちゃんがいるっていうのもあるけど。
壁の方を向いてた頭をぐるりと方向転換し、こちらを見ていたバルレルと視線を合わせる。
正体がバレる危険性が薄いという実感も出てきたせいか、フラットに戻ると、本当に気を抜いてしまうのだ。
「そりゃ判るけどよ、あんま入れ込むな。――どーせ、今のアイツらとは、別れなきゃならねーんだ」
オレはどーでもいいが、オマエ、危なさそうだしなァ。
「あ、うん。それなんだけどさ」
「ん?」
「しばらく、ここ離れてみない?」
・・・・・・
「は?」
まさかそう来るとは思わなかったんだろう。
目をまん丸にして、バルレルが、身体ごとに向き直った。
「帰るの諦める気か? 魔王召喚レベルの儀式じゃねえと、足りない魔力の補充は効かねえんだぞ」
つーかテメエ、今日まさにサイジェントのヤツらに怪しまれねぇよう工作してきたばっかだろうが。
それをあっさりチャラにする気かよ。
そう問われ、は首を横に振る。意図はもちろん、否定。
「そういうんじゃないんだ。ただ――」
「ただ?」
「その、魔王っていうのが、なんか気になってさ」
魔王云々も、こないだの夜に感じた真っ黒いモノも。
それを調べてみたいな、って思ったの。
「あ?」
ベッドの上に身体を起こす。
はずみで零れた赤い髪は、窓から入り込む夕陽を浴びて、より鮮やかに染まっていた。
すっかり見慣れた、その色彩。
と呼ばれることにも、ずいぶん慣れた。
目の前の青年をまーちゃんと呼ぶことにも、かなり慣れた。(慣れんな。←まーちゃん談)
「前に、云ったよね。綾姉ちゃんたちの裡にあるのは、サプレスの力だって」
「あ? ――ああ」
さっきと同じ単語、そのあとに、肯定が続く。
「……魔王の力、とは云わなかったよね?」
「――」
少しの、間をおいて。
ほんの少しだけ、バルレルの口の端が持ち上げられた。
「テメエ、実は天然の振りしてるだけじゃねーか?」
「失礼な。天然っていうのは、もっとこう、ふわふわな人のことを云うんだよ」
てゆーか軍人やってたあたしが天然だったら、商売成り立たないじゃない。
と、天然説は一応否定しておいて。
「あの夜感じた真っ黒いのって、喚び出されそこねた魔王のものじゃないの?」
「そりゃねぇな」
名推理かと思ったら、即座に否定されてしまった。
「云っただろが。ありゃ歪んでたが召喚術モドキ。ついでに、源はニンゲン」
「で……でも、あんな真っ黒いの、人間が持てるもの?」
真っ黒で。深くて。淀んで。
まるで世界中呪ってさえいそうな、あの昏くて強い嘆き。哭き声。
「あの一族の亡霊見たヤツが、何云ってんだ」
だけど、それも否定された。
立てた膝に肘ついたバルレルの、呆れきった三つの目がを見る。
あのとき、禁忌の森で。
淀みにその身を浸しきったクレスメントの亡霊たちを、その妄執を、淀みを、オマエもたしかに見ただろう、と。
「ニンゲンは――良くも悪くも頑丈で、良くも悪くも強ぇ」
前にも、バルレルは同じようなことを云った。
それを実感させられたのは、テメエやトリスに付き合ってあの旅を終わらせてからだけどな、とも。
「テメエらは最後に、あの風さえ浄化するほどデカイことしたじゃねーか」
力を向ける方向によっちゃ、それと同規模どころか凌駕するくらい、深い淀みだって作れるんだよ。
「……人間が?」
「ニンゲンが」
疑問符大量出現させて問い返したものの、すっぱり断定されてしまって。
途方に暮れて、は自分の手を見下ろした。
聖なる大樹とか降り注いだ光とか、それが生まれた光景をは見ていない。
――門が開いたと同時、いっておいでっていう彼らの声に背中を押されるようにして、あちらに帰ってしまってたから。
だから。
実感なんてものは、ほとんどない。
「ま、今の問題はそれじゃねえ」
そう告げようと思ったら、バルレルが口を開く方が早かった。
やっぱり肘をついた体勢のまま、その意図はないんだろうけど、半眼の、睨むような目をに向けて。
「魔王も天使もねえんだよ、あいつらの裡にあるのは」
淀みとか、黒とか白とか分けられるものでもない。
「ニンゲンっていう器にもぐりこんだせいで膜かなんかかかってるのかもしれねえ、他の何かとも混ざったのかもしれねえ」
少なくともオレには、アレを区別つけたりなんてことは出来ねえだろうな。
それでも何かに例えるなら――
訪れた沈黙は、うまいことばが見つからないせいか。
それとも、見つけ出したことばを口にするのをためらう故か。
は、バルレルがそれを告げるまで、当然待つつもりだった。
けれど、そうは問屋が卸さない。
――コンコン、
「!」
遠慮がちなノックの音が、張り詰めた何かを霧散させた。
弾かれたように顔をあげ、ふたりは同時に扉を見る。
扉の向こうの誰かは、気配を隠そうともしていない。誰何するよりも先に、そこから声がした。
「、まーちゃん。ご飯できたってー」
ひどく明るい、ひどく陽気な――
だけどそれは、これまで聞いた彼女のどの声よりも、不自然な声だった。
「あ、ありがとうございます、カシスさん」
すぐに行きますから、そう伝えてくれますか?
そう答えるの声も、それなりには上ずって、わざとらしくはあったのだけれど。
判った、すぐ来てね。
やっぱり明るく云って去る、カシスの声の名残が消え、足音が聞こえなくなるまで、とバルレルは固まっていたけれど。
ふと、顔を見合わせ、
「……聞かれたかな」
「……聞かれただろうな」
会話に集中してたとはいえ、気配を感じるのが唐突すぎた。それまで、意図して息を殺してたとしか思えない。
やっぱり、彼ら、元々肉体的な荒事には慣れてないんだろう。
どこから聞かれた?
どこまで聞かれた?
無用心だった自分たちを責めるのは、あとでもいい。
夕食はたぶん、何もなかったように進むだろう。それは予想できる。
さて、そのあとどうする?
「あたしの世界の故人曰く――“当たって砕け”」
「どっかのバカ兄妹曰く――“やってから考えろ”」
よし。
先手必勝、それでいこう。
今夜も、月がきれいだ。
やわらかな銀色の光で世界を照らす月光は、だけど、それ以上の闇を作り出す。
光の届かない夜は、深い深い闇に沈んで、それ以外の存在を許さない。
踏み入ることも、抜け出ることも。
人工的な灯りの消えた部屋のなかを照らすのは、窓から入る月の光だけ。
「……どういうことなんでしょう、あのふたり」
そのせいか、深い陰影が、彼らに刻まれている。
消した表情と、努めて平坦を保とうとしている姿は、それで余計に寒々しさを増していた。
「判らない」
クラレットのつぶやきに応じ、キールが首を横に振る。
「まーちゃんでも見極められない、あの人たちの力……」
もしかして、本当にあれは、魔王の力じゃないんじゃないの?
常識外れに強そうなまーちゃんが、同類の力だと断言できないって云ってるんだよ?
「それを報告したら、もう、父様だって――」
「諦めたりすると思うか? あの人が」
「・・・・・・」
そんなことは、ありえない。
解の判りきった問いを放つソルに、他の3人から恨めし気な視線が向けられた。
「……それに、父上が諦めて、全部が終わるわけじゃありません」
つと視線を外して、クラレットが口を開いた。
「私たちは、彼らと約束をしましたよね」
きっと、元の世界に帰すから、と。
嘘をついていてもいいから、と、そう云ってくれたあの人たちに。
――約束を、したのだ。
召喚師である以上、それが叶う日は来ないと知っていながら――約束をした。
常の手段では絶対に開かぬ門を開いて、道など普段は見えもしない、名も無き世界にきっと帰すと。
自分たちがここにいるのは、彼らの裡にある力の正体を見極めるため。
それだけだったはずなのに。
約束を、したのだ。
ここに留まる理由を、自分たちは、自分たちで、つくってしまった。
――この場所に、留まる理由。
――この場所に、いるため。
――どうして?
どうして? ――事故を起こしたから
どうして? ――巻き込んだ責任感
どうして? ――嘘をついている背徳の意識
どうして? ――それでも、
どうして ――それでも笑ってくれるの
「わからない……」
ここにいると、どんどん自分が判らなくなっていく。
笑うって何?
怒るって何?
泣くって何?
好きになるって、どういうこと?
向けられる笑顔に戸惑って、向けられる厚意に戸惑って。
それでもそれが彼らの日常で、それに付き合っていくうちに、戸惑いの解は自分たちの日常に変化する。
ここにいると、どんどん自分が変わっていく。
それが怖い。
それが判らない。
――でも。
ここから離れてしまうのは、もっと――
彼らにすべてを明かして、拒絶されるのが、もっと――
それくらいならすべてを秘めて。
なんとか手段を見つけて、彼らを帰して自分たちもここから去る。
……そうすれば、この明るい場所に住む人たちを、自分達の闇に触れさせることはない。
いつからか、そう思ってた。
「あ……」
ふと、窓辺にいたソルが、いつの間にか俯いていた顔を持ち上げた。
視線は窓の外。
風に流れる雲で、一瞬途切れた月の光が、その行動を促した。
けれど、すぐに雲は再び風にさらわれ、銀色の真円が姿を見せる。
――こんな光のもとに出るなんて、あの夜までは思いもしなかった。
――ああ、
あの夜は、月なんてなかった。
あの夜も、あんな闇だった。
最後の日。
自分たちが、人間でいれる最後の日。
誰も何も云わなかったけど、自分たちはそれを判ってた。
・・・このなかで、誰が器に選ばれるのか
・・・このなかで、誰が人でなくなるのか
集まった自分たちは何も云わずにいたけれど、不思議と、相手が同じことを考えてるんだと判った。
――あの夜も、こんな月が在って
「お月見しましょうそこのセルボルトさん!」
こんな人間はいなかった。断じて。