「っ、ざけんなあぁぁぁあぁッ!!」
『――――!?』
轟ッ、と、風が吹きつける。
さっきのまーちゃんの起こした風ほど強くなくても、そこにはたしかに殺気と敵意が含まれていた。
「さがれ、みんな!」
ソルとキールが前に飛び出て、本来なら召喚に用いる魔力を壁のようにして前方に展開する。
耳障りな音をたてて弾かれた風は、生えていた木々を乱暴にこそぎ、削り、或いはなぎ倒していった。
「バノッサ!?」
エドスが叫ぶ。
それは、たった今の兇風を起こした男の名。
深い緑のマントを風に舞い上げ、バノッサは、魅魔の宝玉を掲げていた。
傍にいたカノンでさえも、その風は弾き飛ばしている。
荒れ狂う風の、もう一つの中心に。
独り立つ――その姿。
「手前ェら……どいつもこいつもしゃりしゃり出てきて、好き勝手やりやがってッ!!」
大人しくしてりゃァ、いいものをッ!!
膨れ上がる、宝玉の光。
昏き光。
黒き闇。
膨れ上がる、バノッサの闇。
抱えていた妄執。
澱ませた凝り。
「やめろ! バノッサ!!」
エドスが叫ぶ。
けれど、風に阻まれて――いや、風に阻ませて。バノッサは、その声を聞こうともせず。
笑みさえ浮かべて、エドスを振り返る。
手にした宝玉を軽く持ち上げてみせ、
「コイツが欲しけりゃ、オレ様を殺して奪い取れよ?」
「バノッサ!?」
「バカじゃないの、キミ!? そこまでして魔王になったって、結局は魔王に喰われちゃうんだよッ!?」
キミはキミじゃなくなるんだよ!?
一度は儀式に臨んだ所以からか、カシスがそう怒鳴りつけるけれど、バノッサの笑みは消えない。
小さく喉を鳴らし、
「関係ねぇなァ」
そう、のたまうばかり。
「オレ様が魔王に喰われようが喰われまいが、同じことなんだよ」
この世界を滅ぼすことが、今のオレ様の望みなんだからなァ?
「……バノッサ……おまえ……」
「どうせこの世界には、オレ様の居場所なんてものはねェんだ――」
カノンの泣き出しそうな顔も、今の彼には見えないのだろうか。
「どれだけ望んでも、オレ様が欲しかったものは、もう手に入らねェ。だったら」、
気づけ。
誰かがそう、つぶやいた。
気づいてくれ。
誰かがそう、願った。
だけどバノッサは叫ぶ。そこにあるものから目を逸らして。
「何もかもブッ壊してやる! 世界も、手前ェらも、オレ様自身もッ!!」
闇は彼にささやきかける。
「そうだ……宝玉の力を解放せよ、バノッサ……」
いつの間に立ち直ったのか、オルドレイクが、低く喉を鳴らしてつぶやいた。
「おまえの積もらせた闇があれば、まだ足りる……」
門は開き、魔王は貴様に降臨する――!
「さあ! 具現せよ魔王!! まがい物を倒し、白き焔を食いつくし、この世界を喰らい潰すのだ!!」
「だめです、バノッサさん!!」
絶頂を迎えたオルドレイクの叫びをかき消し、カノンが吼えた。
先刻の風で数メートルほど転がることを余儀なくされた彼の身体には、それが原因と思われる傷がいくつも出来ている。
風そのものにも切り刻まれたのか、傷が深部に達するものも散見された。
痛みを感じないはずはないだろうに、それでもカノンは懸命に叫ぶ。
「もうやめてください! お願いですから!!」
「カノン! 手前ェ、オレの望みを知って云うかッ!?」
それとも何か、こいつらに懐柔でもされたかよッ!
ひと睨みだけで射殺しかねないバノッサの眼光に、けれど、カノンは怯まない。
「違う! あなたの望みをボクは知ってる!」
何があっても最後までついていこうと、誓ったことも忘れてない!
でも。
それでも。
「それを捨てさせることになっても! ボクは、あなたがいなくなってしまうのは嫌なんです!!」
――漠然と。不安を感じていた。
魔王になるということ。
他の存在と同化するということ。
カノンは自分の血を知っている。シルターンの鬼神と、リィンバウムの人間の血。
普段表にいるのは、人間としての自分だ。
だけど、ひとたび鬼神としての意識が鎌首をもたげれば――そんなことになればどうなるか、カノンは知っていた。
呑み込まれるのだ。
暴走する意識に。
喰らい尽くされるのだ。
人間としての自分が。
たしかにひとつの存在でありながら、自分のなかの人間と鬼神は、けっして混ざることはない。
ハーフの自分でさえ。
血の薄い自分でさえ、こうなのだ。
同化するそれが魔王となれば、いったい、その依り代となる人間は、どうなってしまうというのか――
答えは――、想像するまでもなく、不安として具現していた。
いなくなる。バノッサが。消えてしまう。
そんなことは、考えるだけで嫌だった。
例え、バノッサがそれを望んでいても。
「他の誰が何と云っても――」
そう。
自分が望むのは、自分の居場所。
それは、この人のいる所。
「ボクには、あなたが必要なんです……っ!!」
「カノン……」
血を吐くような義弟の叫びに――心底からの嘆きに、バノッサを包んでいた魔力の風が弱まる。
ハサハがいたら、見えただろうか?
魅魔の宝玉に宿る闇に、ほんの少しだけ、小さな光がまたたいたことを。
綻んだ闇を縫って、そうして彼らも手を伸ばす。
「宝玉を渡してくれ、バノッサ」
トウヤが云う。
ギッ、と、バノッサはそんな彼らを睨みつける。
「奪い取れよ! 欲しければ! オレ様と戦って、殺して!」
――オレがそうしたように。
ジャマなものすべてを壊して、取り上げればいいだろう。
「それが出来ねぇんなら、所詮手前ェらはその程度だったってことだ!」
やったるぞコラ。
そうつぶやくバルレルの鳩尾を、は軽くどつく。
手を出すな。
自分たちに云い聞かせたことばを繰り返して。
……手を出すな。口も出すな。
バノッサを救うことが出来るのは、自分たちじゃない。
異分子には異分子のやるべきことがあって、そのために、たちはここに来た。
進み出たアヤの髪もスカートも、風にあおられて大きく翻る。
うなりをあげる轟風に負けじと、普段のおっとりした雰囲気をかなぐりすてて、彼女も叫ぶ。
「あなたを殺してしまったら、あなたが救われないじゃないですか!」
「……!?」
「あたしたちは、世界を救いたいんじゃないの! みんなを救いたいんだよ!!」
「宝玉を渡してくれ、バノッサ!! まだ、間に合うから!!」
ハヤトの声に、バノッサの身体が小さく震えた。
奇しくもそれは、彼がと相対していたときに耳にしたことば。
「バノッサ……カノンの声が、聞こえただろう?」
おまえの居場所はちゃんとある。おまえを案じる者はちゃんといる。
それに気づいてくれ。
「まだ……間に合うから」
まだおまえは、戻ってくることが出来るから、
光が――またひとつ。
けれども。
すぐにそれはかき消える。
「果たして、そうかな……」
地の底からか、闇の果てからか。
その人物の声はいつも、不快を通り越して背筋を凍らせる冷たさを持つ。
今もまた。
すべての者の動きを止めて、オルドレイクは悠然と嗤う。
「バノッサよ……おまえは本当に、戻ることが出来ると思っているのか?」
もう、手遅れなのだよ。
「おまえのしてきたことはなんだ?」
街を焼き、城を攻め陥とし、人々を魔物に襲わせたのは誰だ?
――おまえではないか?
「……あ……」
瞠目するバノッサに、オルドレイクは手を差し伸べる。
仕草こそ穏やかだが、そこには動作から連想される暖かさや慈しみの欠片もない。
さながらそれは、闇に引き込む悪夢のいざない。
「――おまえはもう、引き返せないのだよ」
さあ。
もういいから、魔王を受け入れて楽になれ……
「そんなことない!!」
ピクリ。
今にもバノッサの肩に触れようとしていた手のひらが、止まる。
止めさせた相手を――カノンを見るオルドレイクの視線は、研ぎ澄まされた氷の刃。
「たしかに、バノッサさんは多くの間違いを犯してきたかもしれない」
オルドレイクの眼光を乗り越え、カノンが叫ぶ。
「だけど、間違いは正すことが出来る! 最初からじゃなくても、やり直すことは出来るんだ!」
もうこれ以上、バノッサさんの心をあなたの自由になんかさせない――!!
フン。
嘲りが、オルドレイクから零れる。
「目障りだな」
ことばにしては、ただ一言。
そうして次の瞬間――音が響いた。
ドッ、と。
肉を貫く、鈍い音が。