BACK


彼らのいる世界

:

 ――――走る。
 ――走る、走る。
 走る、走る、駆け抜ける――――!

「……ちっ!」

 けたたましい足音を立てて通路を駆け抜けた少女は、轟音とともに扉を蹴り開けた。ぱっと見ただけでは用途の読み取れない、何かの器具の散乱した室内を一瞥して盛大な舌打ちをこぼす。
 金色の双眸は忌々しげにすがめられ、床に飛び散った鮮血を睨みつけている。
 ――否、鮮血は床だけではない。
 壁や天井、据えられた棚や落ちている器具は、元の色彩を保っている場所を探すほうが難しいくらい、その液体によって塗りつぶされていた。
 ところどころがどす黒く変色しかけているが、まだ液体の色は生々しい。――ことが起きてから、そう時間が経っていない証拠だ。
「……」
 元の形の想像さえし難い欠片や、黒い布きれが散らばる室内に足を踏み入れる気はないのか、少女は扉を開けたその場所で、口元に指を添えて思案する。
「解凍されたか……」
 まいったな、そうつぶやいて佇む姿はまだ幼く、赤い世界に溶け込むには、まだ違和感のほうが大きい。10をやっと数えたかというくらいの小柄な身体、首の後ろでひとつにまとめた長い若草色の髪がまた、部屋を染める赤とは相容れぬままに揺れている。
 そうして少女までもが黙り込めば、そこはただ、沈黙が支配する空間になる。


 ――時間にして、約数分後。
 少女が、思考の海より帰還した。
「うん、起こったことはしょうがない」
 えらく、あっけらかんとしたセリフとともに。
 そうして、少しずつ変色し始めた赤い世界を見渡す。生命の息吹など欠片と感じられない室内を目に焼き付けるように、ゆっくりと――確りと。
 その仕草は、どう考えてもそんな年頃の少女が出来るものではない。まず赤い世界に呆然とするだろうし、万一そこで思考を放棄せずにすんだとしても、原因を推測すれば恐慌に襲われることは必至だ。
 だが、この少女は違っていた。
「……行くかな。いつまでも抜け殻見ててもしょうがないし」
 強い眼差しでその光景を眺めたあと、そうごちて、動揺をおくびにも出さず――おそらく感じてもいないのだろうが――身を翻す。
 若草の髪が、歩く軌跡を現すようにふわりと舞った。



- 1 -




 ――――走る。
 ――走る、走る。
 走る、走る、逃げ続ける――――!

「……っ!」

 やわらかな下草を蹴散らして、それは走っていた。
 人の手の入らぬ森のなか、差し込む日の光はそう強くなく、故に雑草の類は少なかったのだけれど、無造作に伸びる枝葉はそうはいかない。
 手で払いのける暇もなく、当たるなら当たれ、絡まりあう枝のなかに飛び込むその身体で押し分けて進んだ。
 皮膚が削れることなどどうでもいいとばかりに傷つきながらそれは走るが、進行方向と反対側にたなびく長い緑の髪は、そうはいかない。
 立っていれば足元にまで広がるだろうその髪は、時折枝にひっかかってそれの足を妨害した。
「――――!」
 そのたびに、それは、髪を引きちぎって走る。一々解いている暇などない、それでは走っている意味がない。
 たおやかに揺れる髪は、だからところどころ不ぞろいで。そして、手で引きちぎるものだから、赤い汚れがこびりつく。それでもまだ、髪は木漏れ日を浴びて艶やかに輝いていた。
 どす黒く染まった手を握り締め、同じように汚れた衣服をはためかせ、足を休むことなく前後に動かして、それは懸命に走りつづける。
 後ろを振り返るようなことはしない。そんなことをしたら、たちまち、迫る何かに追いつかれてしまうとでもいうように。ましてや立ち止まったりなどしたら、待つのは破滅でしかないとでもいうように。
 ――走る。
 ただ、それは走る。
 どこへ行くのか、どこまで行けば止まれるのか。
 問うても、きっとそれは答えられないだろう。
 駆けることにすべてを費やしているからではなく、落ち着いて問うてもたぶん同じ。
 何故なら、それは、行くべき場所など知らないままに、走り出してしまったのだから。

「――――あ……」

 そうして駆け抜けて。
 足を止めたのは、知るはずもない行くべき場所に辿り着いたからではない。
 走るべき大地が、ぽっかりとなくなっていたから。続いていた緑の世界はそこで途切れ、露出している赤茶けた大地も数歩先で消えている。

 ――崖だった。
 対岸はない。あるとすれば、遥か蒼穹の向こうに峰を連ねているあの山々か。
 それらがすっぽりおさまりそうな眼下には、今それが駆け抜けてきたと同じ森がある。それを緑の海とするなら、立つ場所はさしずめ遠く水平線を望む岸壁。
「っ」
 それは迷わなかった。
 どこかにまわり道がないかと、周囲を見渡すこともしなかった。
 立ち止まったほんの数秒のあと、再び、それの足は地を蹴ったのである。

 ――――遥か眼下の、緑の海に飛び込むために。


   /