紅と碧をかき消して、白い光が一帯を覆う。
「……あれは」
既視感を覚える護人たちのつぶやきも、数多の驚愕も飲み込んで。
白い、白い焔が疾りぬける。
意志のままに、至極素直に、動いてくれる白い焔は、の願うそのとおり、紅と碧の糸を断ち切っていく。
ぶつぶつ、ぶつぶつ。
ぶちぶち、ぶちぶち。
そんな豪快な音が聞こえるくらい、やられて、レックスとイスラはとうの昔に変貌を解いた。もとい、解かされた。
だけどふたりは何も云わない。云えない。
驚愕一色浮かべたそれぞれの双眸で、焔の源を眺めてるだけ。
ああ、でもちょっと残念だ。
予想以上に、彼らと魔剣の結びつきは強かった。……たぶん、きれいに交じり合っちゃってるんだろう。
いかな強力をもってしても、その結びつきを断つことは難しい――きっと不可能。それは、彼らの魂を断つのと同義なのだろうから。
さて他のみんなはどうしてるか――ちょっと間抜けなことに、吹き荒れまくる白い焔が幕みたいに、こちらとあちらを遮って、もはや声さえ聞こえない。
さすがに、この焔を抜けてくるようなひとは、いないみたいだけれど。
だから。
見えるのは、レックスだけ。
見てるのは、レックスだけ。
ほんの僅かな先にいるだろうイスラも、もう見えない。
数秒前はまだ見てとれたのに、今は白い焔の向こう。
「おか――さ……?」
呆然と、蒼い双眸が揺れている。
そこに映る己の姿。まとう色彩を透かし見て、ちょっと安心。まだ、だいじょうぶ。
……まだ、その声に応えてやれる。
「あ……」
立ち尽くす青年の目の前に近づいて、腕を広げた。まるで磁石に引き寄せられるみたいに倒れこんでくる身体を、そっと受け止める。
「あ……あ……っ」
信じられないのだろう。
事実、こっちだって信じられない。あれは本気で死ねたと思った。
うん――でもね。
いなくなる、のは、これから間違いなく事実なんだ。
だから。
終わらせなくちゃいけない。
レックスとアティのとおいゆめに、今度こそ、ちゃんと終わりをあげなくちゃ。
レックスとアティに、お別れを云わなくちゃ。
……あの遠い日、置き忘れてきたそれを。
「おかあさ……っ」
それがたとえ、自己満足の域でしかないのだとしても。
それがもしか、彼らをさらに打ちのめしてしまうとしても。
……そうしなければ前に進めないことは、たしかに、あるのだから。
抱き返そうとまわされかけた腕を察して、自分の腕に力を入れた。それで、ぴたりとレックスは動きを止める。
そうしてる間にも疾る焔。それによって、剣から伸びる無数の怨嗟が自分に届く前に断ちきられてることを、レックスは承知してるだろうか。今や彼の感覚は、すべて、眼前の“おかあさん”に向けられているようで――うん、それはさいわい。
よけいな違和感や痛み、考えなくてすむだろうから。
などと考えるこちらも、意識はほとんどレックスにのみ集中していた。保つことだけで手一杯な今、他にまわす余裕なんて皆無。
……だから、イスラが、引きちぎられてゆく紅の糸を、手繰りなおしていたことに、気づいた者などいなかった。
白い白い焔。
真白く猛る陽炎。
じんじん、熱く震える胸元の白い剣は、もう、しまっておくことさえ難しくて。
けれど、その熱をこらえる。
そして、力任せに断ち切られていく紅の糸を、行くなとばかりに引き止めた。
「……片手落ちだよ、」
小さくつぶやく。それが、今の彼女にとっては精一杯のことであろうと判っていても、つぶやかざるを得なかった。
危なかったのは彼。
より崖っぷちにいたのは彼。
この場では、間違いなく、彼のほうがその場所に近づいていたのだから。
だからは、それを防いだのだ。
だからイスラは、紅を手放すわけにはいかないのだ。
おそらくは、ふたりとも解放しようとしていたに違いない彼女を――けれど、イスラは嘲笑ったりはしなかった。
白い白い焔に覆われ、たったひとりと云っても差し支えない状況だからこそ。
「――きれいだね」
紅を手繰り寄せながら、ほんのいっとき仮面を外した道化師は、まぶたの熱を感じながらつぶやいた。
――人が死の際においてこそ、もっとも眩しく輝くというなら、目の前のあれこそがそうなのだろうかと。
その腕を覚えている。
その声を覚えている。
その姿がどんどんぼやけていっても――あの赤い日、赤い背中、赤く染まってた刃と泣いていた翠の双眸を、今も、ずっと覚えている。
「おかあさん」
「うん」
――初めてもらう、肯定だった。
その上でこうして抱いてもらうことが、どれほどの歓喜か。夢想した以上に、それは優しくてあたたかくて……そして、きりきりとした不安が心臓を絞り上げる。
だって。こんなふうに認めたりなんて、けっしてしなかったろうから。
それを、今、こうして認めてみせてくれるなんて、まるで。
そんな不安を読んだのだろうか、いや、彼女は最初からそのつもりだったのだ。
「レックスのこと、アティのこと、あたし、本当に大好きだよ」
心なし、急いた様子で彼女は告げる。
「……あたしにとっても、あれはあったかいゆめだった。大事にしてくれてて、ありがとう」
「う――うん。うん……うん……!」
間違いない。
それは間違いない。
そうでなきゃ、とうの昔に忘れてた。
振り子のように頷くレックスの背を、彼のよりずっと小さな手が、ゆっくりと撫でる。
「でも、あたし、あのとき自分のことばかり考えて、大事なことを云い忘れてた」
――終わりが欲しかったから
いつか、彼女にそう告げた。
「あ……」
「だから、今、云うね」
「いやだ!」
とっさにそう叫んだけれど、そんなの、予想されてたらしい。ぽんぽん、と、まるで幼子をあやすように動く手のひら。
「何にだっていつだって終わりはあるよ。それが今だっていうだけ」
「でも、それは!」
――それは。
アイツが。
このひとを、貫い
「いつだって終わりは来るよ」
不意に膨れ上がった碧の闇へ、白い焔がぶつかった。双方、四散する。
「でも!!」
さらに膨張する碧。重ねて打ち消す白。
ふたりの周囲で荒れ狂う、二色の力に、けれど、とうのふたりだけが目を向けない。
喰らい尽くさんと猛る碧。
それを悉く叩く白。
は、と。
耳元に零れた荒い息を、レックスは聞き逃さなかった。
「おかあさん!」
さらに碧が、白が、暴れ、打消し。
「それで――これも、あたしの自己満足かもしれない」
だけど、云わなければいけないことばを、置き忘れてきたことは確かだから。
いやだ、と、昂ぶらせかけた感情は、しかし、碧を呼ぶ前に消える。
云うと同時に離された身体、真っ直ぐに自分を見据える翠に、瞬間、すべての感覚がそこに向かったから。
「レックス」
――そのひとは、笑ってた。
薄くなった髪の色は、周囲の白に霞んでるから?
心なし濃くなってる眼の色は、血を多く失っているから?
だけど、そのひとは、
「おかあさん……」
そう。その事実だけは、きっときっと、変わらない。
たとえ彼女が“そう”でなくなっても。
そして、おかあさんは云う。
血の気のひいた額に脂汗をにじませて、だけど、真っ直ぐにレックスを見――笑って。
「魔剣はあなたたち自身に絡んでる。結びつきは魂ごと。断ち切ることは、たぶん出来ないと思う」
「……あ」
それでは、自分はずっと、こんな爆弾みたいなものを抱え込んで。
今みたいに激昂したら、また誰かを危険な目に。
「でも」、
不安に揺らぎかけた心を、翠の眼が引き戻した。
「覚えてて。それを握るのは、あなたの手だ」
力を握るのは、力に宿る意志などではない。
礎が何者であろうと、力を持つ手は持つ手の主以外の誰でもない。
「使い方を決めるのは、あなた自身だ」
――余計なことを云うな!
奥で吼える、ダレか。
膨れ上がる碧を、また、白が弾く。
「余計なのは、そっちでしょうが」
突き刺さるような鋭い声で、おかあさんは、ダレかに云った。
それから、視線をレックスに戻して、笑う。
……今、少し判った気がする。
さっきイスラが似たようなコト云ったときの、彼の気持ちと笑顔の理由。
それ、少しだけ、うん――共感できたかもしれない。
そうして、視線をレックスに戻して、は笑った。
さようなら、と、唇を動かした。
「あたしは――あなたたちが大好きだ。……今までもこれからも、きっと」
――この声を、気持ちを、どうか覚えていてほしい。
「おかあさん……!」
行かないで、と伸ばされる腕。
それに呼応するように、いや、これはレックスの心の隙をついてるんだろう。膨れ上がる碧、これがおそらく最後の余剰。その一本を断ってしまえば、レックスと魔剣のつながりは、初期のそれに戻るだろう。
流れ込んだ憎しみや哀しみは、まだ、レックスの魂までも喰らい尽くしていなかったから。
「……ッ」
いい加減かすみ始めた両目を叱咤して、は、大きく後ろに跳んだ。
「おかあさん!」
レックスと、その間に割り込む白い焔。突き破って迫り来る碧。
ざ、と、足を肩幅に開いて大地を踏みしめた。
長時間放出しつづけた白い焔は、の持つ道そのものに、先刻からパシパシと亀裂を生みだしている。これ以上長引かせれば、道自体が消滅しよう。――そんなことに、するつもりはない。
まだあたしは、帰りたい場所があるんだ。
限界を超えて損傷した道が治るまで、どんなに長い時間がかかろうと、いつか帰る。その望みを捨てたわけじゃない。
帰った先で、“”と見てもらえないほどの、長い長い時間が間に横たわったとしても――“あたし”は、きっと、あの場所に帰る。
そう。
胸を張ってあの場所に帰るために。
迷っても、戸惑っても、不安になっても――
「途中で放り出すなんて真似、してやるもんか――」
出逢って、
触れて、
笑みあった、
この時代の、この島の、大切な彼らへ、
出来ることが、まだあるのなら――…… リィンバウム、
「――応えろ……!!」
応え、白い焔が集う。
津波のように、暴風のように、その道目指して流れ込む。
厚く空を覆う雲、暗く翳った島の、ただ、そこだけが――さながら白い陽炎に包まれたように浮き上がり、
そうして次の瞬間。
碧も、紅も、はるか上空の雲も、そして猛った何かの意志さえ。
弾き飛ばさんと顕現した――白い、白い焔の柱。