【そして忘れられた島で】

- 知る者なき夕暮れ -



 ――――それは遠い、夕暮れのなか。


 ふたりの男が向かい合っていた。
 たくましい体躯を誇る赤茶色の髪の男と、相手に比べれば細身だが、それでも強靭な身体を持つ、赤紫の髪をした男。
 彼らが佇むのは、屋外に設けられた鍛錬場。
 地面は硬く踏みしめられ、そこかしこに武器で抉られたと思われる穴が穿たれ、あとしばらくもすれば地面を均すためにやってくる見習いが頭を抱えるかと思われた。
 ――ふ、と、赤茶色の髪の男性が、顎鬚を揺らして目を細める。
「どうした。あまり身が入っていなかったようだな」
 赤紫の髪の男が、それを聞いて苦笑した。鋭さのある双眸は、少し伏せられたことで印象を和らげる。
「さすが、アグラバイン殿は聡い。そんなに気もそぞろだったか、私は」
 アグラバインと呼ばれた男は、そのことばに声をたてて笑い出す。豪快な性格なのだろう、と、彼を知らぬ誰かが見ていればそう思ったろう。
 だが、彼らを知らぬ者など、それこそ数えるほどしかいないに違いない。
 少なくとも、彼らの在る修練場、それの設けられた城内と周囲に広がる街に暮らす者たちのなかには。
 しばし大気を震わせたあと、アグラバインは表情に笑みを残したまま、鷹揚に頷いてみせた。
「判らいでか。久々の屋外鍛錬ではりきっていたのだぞ。その相手に気が入っていないのでは、拍子抜けもしようというものだ」
「……それは、申し訳ない」
 苦笑を深くして、赤紫の髪の男は謝罪した。
 それから、ふっと視線を動かして、この地方にしては珍しく晴れ渡った空を眺める。
「――この時期に晴れ間が続くのは珍しい」
 世間話めいた、他愛ない切り出し。
「夕暮れを見るのもどれくらいぶりか。……まあ、遠征中であればいくらでも見れよう」
「同感だ。――あまり歓迎したい状況ではないが」
 同じく持ち上げていた視線を戻したアグラバインと目を合わせて告げることばに、
「そうだな。とはいえ、こんな会話が上層部に届けばどんな咎めを受けるか判らん」
 そう応じて。相手が頷くより先に、アグラバインはつづけた。
「おまえはまだ若い分、感情に任せて動く部分があるからな。自重は忘れてはならんぞ、レディウス」
「――はは、貴殿から見ればまだまだ私も息子も同列と見える」
 レディウスと呼ばれた男性は、たしかにアグラバインから見れば若いのだろうが、充分に歳を重ねているのは一目瞭然。今が一番の隆盛期と思われる。
 血気盛んでもあろうに、若造扱いに気を悪くした様子もなく、レディウスは闊達に笑った。
 歳の開いた同僚の仕草を、アグラバインはまるで息子を見るような気持ちで眺める。
 子をなさなかった彼にとって、このレディウスとその奥方、まだ年端も行かぬ彼らの幼子は、そのまま息子夫婦と孫のような感覚さえ持っていた。
「しかし、無理もない」
 まだ額に少し残っていた汗を手のひらで拭い、アグラバインは軽く肩を揺らす。
「――あの男、ウィゼルと云ったか」
「ええ」
 今日の、まだ、日が高い時間だった。
 城の門番達を押しのけて、制止する一般兵たちを傷つけぬまま牽制し、この鍛錬場に足を踏み入れた男がいた。
 部外者が城に入るだけで大問題だったのだが、幸いにも、煩い上役たちはここのところずっと議会場に篭りきりだ。何を話し合っているのか知らないが、どうせ碌でもないことだろう。
 ともあれそういう事情もあり、また、どちらかは常に不在がちな将軍――アグラバインとレディウスが珍しく揃っていたこともあって、侵入自体は大した騒ぎにもならずにすんだ。

 侵入自体は。

「――世界は広い」

 まだ熱に浮かされたように、レディウスがつぶやいた。
 黒い手甲に包まれた掌を握りしめ、視線はアグラバインでなく、空――夕暮れ、いや、遠き異国へと。
「あのような遣い手がいたとは――」
 この国の外からやってきて、将軍ふたりに勝負を挑み、ただそれだけで他に何を望むでもなく去っていった男へと。

「……ウィゼル・カリバーン、か」

 獅子将軍アグラバインと引き分け、鷹翼将軍レディウスを僅差で地に伏せた。
 それを成した男の名。

 つぶやいて、アグラバインもいつになく、気分が高揚している己に気づく。
 レディウスのことは云えぬ、そう心中で苦笑した。
 結局、ふたりはふたりとも、昼間起こった闖入者との仕合で生じた高揚と驚嘆を引きずったままだったのだ。
 ま、多少沈黙を保つくらいは、年の分多目に見てほしいところ。
 そんなことを考える程度には己の思考もまだ青臭いと自覚を覚えて、またアグラバインは苦笑する。
 その変化に気づいたレディウスが、
「どうかなさったか」
 と、視線と意識を引き戻して問うてきた。

「いいや」

 悟られてはたまらんとばかり、アグラバインは軽くそれを受け流す。
 それから、先ほどの彼と同じように、沈みゆこうとしている太陽に目を向けた。
「次があると良い。そう思っただけじゃ」
「――次、か」多分に同意を込めて返されることば。「そうだな」
 口調がいささか強いのは、引き分けたアグラバインと違い、ほんのわずかの差ではあったが、敗北を喫したせいだろう。
「次こそは、私が勝つ」
「その前にワシを凌がねばならんぞ?」
「……たしかに」
 順序でいけば、そうなると。
 茶々を入れたアグラバインのことばを受け、レディウスが笑う。
 だがすぐに、その笑みはなりをひそめた。
「――次か」繰り返されることば。「いつ、訪れるものだろうか」
 あの男は、各地を流れているらしい。
 またこの国に来るとも限らず、こちらから出向こうとしても位置は判らない。まして将軍という任を負っているふたりは、そうそうそんな事情で国を空けられるわけがない。
「ふむ」
 そんな懸念を受けて、アグラバインは頷いた。
「あるいはワシらがとうに歳をとった後かもしれぬな」
 そのときは、さて、勝負どころではないやもしれぬ。
 そう続けようとしたことばを、
「それでも構わぬ」
 強く。
 レディウスが遮った。

「そのときは、ルヴァイドがいるだろうからな」
「……なるほど」

 ルヴァイド。今はまだ幼いが、将来きっと、鷹翼将軍レディウスのわざを受け継ぐだろう彼の息子。
 いっそ己の技量も一緒に叩きこんでしまうかと、少し物騒で少し楽しげな考えがアグラバインの脳裏によぎる。
「それに」
 その合間にも、レディウスのことばは続いていた。
「仮にルヴァイドで足りなかったとしても――それを継ぐ者がいる。次代がある、それが我等の強みだ」
 ウィゼル・カリバーンの剣技はたしかに素晴らしかった。
 一国の頂点であるふたりの将軍に匹敵、それ以上に負かしさえした凄絶な腕前。
 だがそれは、ウィゼルが一人で磨き上げたものである。
 現状、彼と比肩するような遣い手は世界にふたりと在るまい。だが同時に、そのわざを受け継げるような人間も、果たして現れるのかどうかといったところだろう。
 ――逆に。
 アグラバインのわざも、レディウスのわざも。
 それぞれの流派が、それぞれの時間をかけて、費やして、この日このときに至るまで、そしてこれから先、時代にそぐわず廃れるまで、続いて、そして繋げていくものなのだから。
「そうだろう?」
「そうじゃな」
 やはりまだ、熱は去りきっていないようだった。
 普段はそう口数の多い男ではないレディウスの、熱心に語ったことばと。そして求められた同意に頷くアグラバインの――いつもは引き結ばれていることの多い――口許は、楽しげに持ち上がっていたのだから。



 ――遠い夕暮れ。
 交わされた将軍たちの会話を、知る者はもう、どこにもいない。


 そして。


「ウィゼル・カリバーン!!」

 その名を叫んだ少女の瞳、双眸に。宿るは輝き、強き意志。

 そのとき。
 かつてまみえた将軍のひとりを、そこに男が重ねて見たことも――また、余人の知ることなき出来事である。