【そして忘れられた島で】

- レイズ -



 バノッサは、バルレルが苦手だ。
 サイジェントでの件もしかり、これに加えて本当の意味で魔王と名乗るに相違ない存在だということもまた、苦手意識に拍車をかけている。
 正直、例の白剣持ちバカより近寄りたくない相手であった。

 が。

 そういうふうに思っている相手にこそ遭遇してしまう、なんていう意地の悪い偶然は、結構そこいらにごろごろ転がっているもので――

「……ちょうどよかった」

 しかも。
 あろうことか外見クソチビ悪魔は、一瞥直後とっとと立ち去ろうとしたバノッサを、
「たしかめてぇことがあったんだ。付き合えよ」
 ――いったいどこに持っていたのか、“魔王殺し”なんぞ書かれた酒を片手に、ニヤリと笑って引き止めたのだ。


 そうして場面はここになる。
 狭間の領域だとかいう名を冠した、サプレスの召喚獣たちが暮らす場所。そのなかでも、余人めったに立ち入らぬ一角で、濃密度の冷気に囲まれて、バノッサとバルレルは杯を傾けていた。
 ドけちなことにクソチビ悪魔、バノッサに申し訳程度の量をよこしたあとは、これ以上やる気はねぇとばかりに手酌で己に注ぐばかり。さりとてバノッサも大量飲酒をする気分ではなかったから、一杯目に申し訳程度の口をつけただけで、まだなみなみとある酒の表面を何をするでなく見ていただけ。
 ――ややあって。
「で」、
 やっとアルコールには満足したらしいクソチビ悪魔が、視線を杯からバノッサに移した。
 そうして開口一番、

「サプレスの守護者のことなんだかな」
「押し付けてったのは手前ェらだろうが」

 ことばを途中で遮って、不機嫌に云う。
 そう長い時間でないとは云え、待たされた感は強かった。短気を自認しているバノッサの気分は、今順調に下降中だったりする。
 クソチビ悪魔はそんなこと知らぬとばかり、「は。――あぁ」一瞬ぽかんとしたものの、
「違ぇ違ぇ」
 こちらは上昇中の気分に任せ、ひらひらと手のひらを振ってみせる。
「前任者のこった。テメエは直に逢ってはねぇんだっけか」
「……黒ずくめか」
「そう。ぬらりひょん黒ずくめ」
 本人が聞いたら、ふたりの後頭部をおそれげもなくハリセン殴打しそうな、実にユカイな形容だ。
 だが、
「……テメエ、アレのこと、に云ってやしねえだろうな?」
 そう言葉が続けられたとき、バルレルの表情はユカイどころではなく、口調にはどこか、絞り上げるようなものさえ含まれていた。
「――――ハ」
 常人ならそれだけで凍りつきそうなものだが、そこはバノッサとて場数というものを踏んできた自負がある。加えて、苦手意識と同じくらいに持っている対抗意識が、沈黙を一秒程度で終わらせた。
 続けて彼が浮かべた笑みもまた、誰かが見ていたらがっつり固まりそうな凄味を漂わせている。
「誰が云うかよ」
 視線逸らさず告げる途中で、クソチビ悪魔の双眸に宿る、ほんのわずかな安堵の感情。
「それにそもそも、云ったところでどうなるってんだ」
「どうもなりゃしねぇよ。――どうせにゃ、どうも出来ねえ」
「なら云っても無意味ってもんじゃねえか」
「……」、
 探る色。
「意味があったら云うか?」
 それを受け止める。
「いいや」
 視線をぶつけたまま、かぶりを振った。

 ――云えるわけもない。と、それを言葉にはしなかったけれど。


 バノッサがそうなる以前、サプレスの守護者を務めていた人物の名を、レイズという。
 他の守護者達と同じようにサイジェント付近に居を構え、まあ、役目もやはり、他と似たようなことをこなして過ごしていたのだろう。
 サイジェントに――聖王国西の辺境にあるは、各界のエルゴの欠片があった。
 それを余人に知られぬよう、悪意の手が伸びぬよう、護るために在るは彼ら。故に彼らをして守護者という。
 もっとも、エルゴ自体伝説となったこの時代においては、そのような心配も杞憂――そのはずだった。過去形である理由は、云うまでもない。
 護りの手は失われ、サプレスのエルゴの欠片は一時隠れた。その騒動に、バノッサや、今島に滞在している数名は、中核そのものに食い込んで関った。
 それは、“”とクソチビ悪魔が呼ぶあの女も同じである。姿こそ違ったが、当人は当人。そして“レイズ”とも、彼女は直に接触を果たしている。

 ならば何故。
 ――そう、事情を知らぬ者ならば云うのだろうか。

「……」

 バノッサは、黙って杯をかたむける。
「やっぱり、手前ェも知ってやがったのか」
「知らいでかよ。預かってたのはオレだぜ」
 サプレスのエルゴの守護者。その力をバノッサに押しつけたのは誰あろう、たった今そんなふうに毒づいたクソチビ悪魔である。
「――」
 同じものを知る相手がいる、それに安堵したわけではないし元々予想していたことではあったが、バノッサの口から零れたのは、そんな意のこもった小さなため息だった。


 レイズ。サプレスのエルゴの守護者。
 黒ずくめの――人間。

 投げられた力と共に。付いてきてしまった、それは。その男の記憶。


 行方不明になった親戚はいない。
 いつかどこかで、敏腕アルバイターに尋ねられた誰かはそう答えた。
 でも。
 行方不明という限定ではなく、もっと意味を拡大出来る問いかけであれば、また別の答えを、その誰かは用意していたかもしれない。……もっとも、十歳までの記憶など、歳を重ねるにつれてどんどん薄らいで朧なものであるのだろうから、確率はけして高くなかったろうけれど。

 それでもそんな誰かこと、彼女の記憶の引出しには、母親の膝に抱えられて一冊のアルバムを眺めていた、そんな光景がたしかにあるのだ。
 赤ん坊の彼女をまだ幼い手で抱いて、カメラに向かって笑いかけてる少年の写真。
 その一枚を示して、彼女の母はこう云った。
「覚えてるかな? 赤ちゃんの頃、いっぱい遊んでもらってたのよ」
 お母さんのお姉さんのところの子だったの。
「零冶くんっていったんだけど」
 遠足に向かう途中事故を起こして炎上した幼稚園のバス。それに、その子は乗っていた。

 ……生きていたら、のいいお兄さんになってくれたのにね。

 寂しそうに、姉を気遣うように。
 微笑む母の表情だけを、写真に視線を落としていた彼女は知らない。


 そうしてそれは記憶。
 真っ赤に染まった炎、空気、飲み込まれようとした自分を、それら以上の輝きでもって“こちら”へ移動させた何かの力。
 偶然だったのだと聞かされた。
 術の事故があちらの事故とリンクして、自分だけあの炎と熱から逃されたのだと教えられた。
 ――正直。吐いて呪って恨んで憎んだ。
 それらをどう克服したのか、いや、克服せぬまま飲み下したのか。
 そんなことはどうでもいい。それこそただ、過ぎたこと。

 ただ。
 仕方ないと引き取ってくれた男のもとで自分は育ち、半ば流れのように召喚術を学び――ある日突然、エルゴに守護者の指名を受けた。
 やりとりの仔細は輪郭おぼろ。どうにも素っ頓狂な人生だと苦笑してみたことだけは、よく覚えている。
 それもまた記憶であり、事実。

 バス事故のあったもといた世界。あちらが名も無き世界と呼ばれ、予期せぬ事態でしか行き来できぬ世界であることは真っ先に学んだ。
 だから、この世界で暮らすのだと。それは確たる現実で、受け入れるのは至極容易。
 ――ただ。
 ただ、それでも。


 きっと美人になったんだろう従妹には、も一度くらい、逢いたかった。
 赤ちゃんの姿しか知らない従妹の名前は、という。父母と同じかそれ以上強く、忘れることのない大事な名前。



 ――――

 ……沈黙するふたりに怯えてか、周囲の霊気は流れを止めていた。
 どろりとした粘性の、だが不快感を与えることなどないそれらは、実体を解いたサプレスの民たちであるともいう。大半は、意志持たぬ霊気だそうなのだが。
 いつしか重圧を増した空気を押しのけ、バノッサはぽつりとつぶやいた。
「なんつったか。あのバカの家名」
「家名っつーか苗字ってのらしいな。ちなみに
「そのの家ってな、なんだ。何かに呪われてんじゃねえのか?」
 努めて不機嫌に、ばからしいことのように、呆れたように。
 ――そうでもしないと同情しそうになる。そんなのガラでもないというのに。
「いや、アッチにゃ呪いとか召喚術とかってな文化はねぇらしいぜ」
「そういうことだけ真面目に答えんじゃねェ」
 いつの間にか空になった杯を投げつける。
 受け止めて投げ返される。
 軽く上体逸らして避けると、乾いた音をたてて、それは地面に転がった。転がり終えて止まるまで杯を見送ったバノッサは、その姿勢のまま――視線を悪魔に戻さないまま、口を開いた。

「少なくとも、バカ野郎揃いの家じゃあるみてぇだがな」
「違いねぇ」

 ケケ、と応じる声を耳に、バノッサは、やっぱりこのクソチビ悪魔に着いてくるんじゃなかった疲れるだけじゃねぇかと、大きなため息をついたのである。


 ――気づけばよかったじゃねぇかよ、血縁なんだから。

 間近に向かい合い笑う、赤い髪と翠の眼をした少女の映像。
 前任者である男の記憶を引き出しの奥へ再びぐいぐい押し込むとき、バノッサは、いつも、そんなことを考えるのだ。