【そして忘れられた島で】

- 魔王 -



 わりと、意外な光景だった。
「……」
 このひとが義弟と一緒にいないのもさることながら、それ以上に、すっかり気を弛めた様子で、目を閉じて静寂にひたってるのが。
「カノンなら風雷の郷だ」
 だがしかし、
「あ、いえ」
 やはりその感覚は、余人では及びもつかぬほどに鋭敏。
 あわてて両手を振るを、うっすら開かれた赤い双眸が、これまた驚いたことに、険を見せずに映し出す。

「……ていうか、なんで第一声がカノンさんの居所なんですか」
「じゃあ俺様に用だってのか?」
 ありえねえ、とでも云いたげにつぶやくバノッサ。口調によどみもないところを見るに、どうやらというかやはりというか、寝ていたわけではないようだ。
 で、まあ、実はそのとおりなのだが。
 別にバノッサに用があって、はこの場にいるわけではない。
 だがだからといって、
「カノンさんに用事ってのでもないんですけど」
「……暇人だな」
 ――霊界集落狭間の領域、その外れ。
 漂う霊気がどこよりも濃い一角、故に、周辺及び訪れる住民たちは一体たりとも例外なくそれに溶け込み、結果として個を隠し、まるで無人の林のようにも思える所。
 フレイズが、「せっかくですから見ていかれますか?」と教えてくれたりしなければ、だってここに足を向けたりしなかったろう。
 ちなみに訊いてみたところ、そう云ったフレイズもまた、ここに来ると個を隠してしまうのだそうだ。引きずられる、というのが近いのだろうか。意識体として漂うんだと説明してくれたが、にはよく判らなかった。
 離れれば、元の個体をまた構築出来るんだとのこと。さらに問うてみたところ、どうやらバルレルもここを訪れたことがあるらしい。
 溶けて漂う悪魔と天使。――バターじゃあるまいし。
 ともあれ、としては物見遊山、観光のつもりでここまでやってきたのだった。
 まあ暇人と云えば暇人か。
「そういうバノッサさんはどうなんです」
「俺様? ――暇に決まってんだろうが」
 正直な人である。
 魔王の器に選ばれたことと、それから、とまーちゃんが最後に押し付けてった例のアレのせいだろうか、この場にある霊気の影響は、ずいぶんと強そうだ。
 今のでさえ判る、この濃度。
 どろりとした粘性の何かが、重さや圧力を感じさせずに、一帯を覆っている。不快感はないが、肌がさわさわとするような違和感は消えない。
「暇ですか」
「ったりめぇだ。平和すぎる」
「――いいことじゃないですか」
 おうむ返しにつぶやいたら、返ってきたのは物騒なことばだった。
 思わず眉をしかめたを、ちらり、と、適当な木に背を預けたままのバノッサが見上げる。僅かに細められた双眸は、勘違いでなければ、おもしろがっているような感じ。
 この人、こんなふうに誰かをからかうようなひとだったっけ?
「ったく――厄介なモン、押し付けていきやがって」
「……」
「ガラじゃねえだろ。どうしてくれるんだ」
「……バレてました?」
「カノンが、手前ェに逢ったことを思い出したのと一緒にな」
 数年前のサイジェント、ではなく、十数年前のサイジェントで。
 鬼の子として母親から拒絶されていた、乳白色の髪を持つ、小さな優しい男の子。
 暗い地下室で朱にまみれていた彼を思い返しながら、は、腰に手を当てバノッサを見下ろす。
「しょうがないでしょう。早いとこ、次の担い手見つけてくれって遺言だったんですから」
 云いつつ、脳裏にフラッシュバックする。それは、数年前、もうひとつの朱。
 黒髪で黒目で黒ずくめで――とまーちゃんの前に、文字通り死にかけながら現れた、サプレスのエルゴの守護者。
 レイズ。
 人知れず、あの空間で消えたひと。
 ……ていうかさ。
 あの空間つながりで、思い出すのは遠い輝き。世界の意志、その具現。
 ……エルゴってわりと、いいかげんだ。
 だがしかし、不遜なことに、のエルゴに対する印象はそんな感じで実によろしくない。時間旅行黙認したり一部エコヒイキしたり、それはそれで助かった部分もあるのだが、このタイムリミット付きの記憶操作はどうか。
 そりゃ不具合が出るのは問題だし、あのときはそれで納得もしたが、なんだってこう、てんやわんやにまた輪をかけるようなときに、そのリミットがやってくるのだ。
 ……バルレルがこっそり耳打ちしたところによると、どうやら、たちが元の時間に無事帰還・定着したのがスイッチだったらしいのだが。――なんでそんなもんをスイッチにするかな。エルゴが人間だったら、きっと、とってもいい性格をしてるに違いない。
 いや、そも、ああいうものに性格があるのかどうかなんて、判りやしないけれども。
 担い手かよ、と、バノッサがつぶやく。
「エルゴの守護者なんて要らねえだろうが」
 次代の誓約者は現れた。今や、結界の要は彼らが担ってる。その点で云えば、バノッサのことばは正しいのだろう。
 だが、
「でもいつか、アヤ姉ちゃんたちもいなくなります」
「俺様がくたばる方が先だろうがよ」
 年長者の自覚はあるのか、彼はの発言半ばからそんなことを云う。
「はい」頷く。「みんな、いつかはいなくなるんです」
「――――」
 物問いたげにこちらを見てくる赤い双眸。云いたいことくらい判ってるだろうに、やっぱり、このひと天邪鬼だ。
「誓約者は、リィンバウムと、他の四つのエルゴにも認められないといけない」
 でも、各界の欠片の守護者ならば、その界のエルゴに認められればいい。
「継承は、バノッサさんたちが持ってる力のほうが、簡単でしょ?」
「俺様の意志は無視かよ?」
「まさか」
 すう、と流れる濃い霊気。立ち上がったバノッサの動作に刺激され、揺れてたなびくやわらかな粘土。
 病的なまでに白い肌、色素の薄い髪。そのなかにおいて、鋭い光をたたえたまなざしが、真っ直ぐにを見る。
 あー。
 いつかどこかで見たと思ったら。
 あの戦いの最後。待ってる奴がいるんだと、忘れるなと。云ってたときの、それに似ている。今のバノッサの表情は。
 ……もしかして、この人ってば、あれか?
 まーちゃんことバルレルに、蓄積してた諸々を食われたせいで丸くなってはいるものの、それを素直に表現するのがこっ恥ずかしいとか、そういうそれか?
 サイジェントでの日々、傀儡戦争での僅かな接触。そのどれよりも、静かで張り詰めた――でも刺々しさはない、バノッサの持つ空気。
 ……まあいいか。
 はそこで思考を切り替える。「まさか」のあとに続けるべきことばを、そうして紡いだ。
「つなげるかどうかは、バノッサさん次第じゃないですか。それにほら、やろうと思えば今なら真面目に魔王目指せますよ、きっと」
 なにしろ、モノはサプレスのエルゴがよこした力だ。使い方こそ熟知すれば、あちらに渡って君臨することだって、出来るんじゃないだろうか。
 ――というのは、サプレスの姿を知らないからこそ考える、お気楽なものなのかもしれないけれど。
 だが、バノッサは、それにいい顔をしなかった。
「魔王ゥ?」
 しり上がりの実に厭そうな口調と、それに比例した表情に、おや、と目をしばたかせる
「誰がなるか。あんなもん」
「……なりたがってたのは誰ですか」
「やかましい。昔は昔だ」
 昔ってほどですか? と、がさらなるツッコミを発するより早く、
「そもそも、魔王なんていねェんだよ」
 発されたそれは、わりと、爆弾的発言だった。

「え」

 じゃあ、バルレルとかレイムさんはどーなるんだ。
 口をぽかんと開けて放心したを一瞥し、バノッサは、すぐに視線を虚空に移す。
 そうして、さすがに言葉が足りないと思ったのか、
「……人間の考えてるような魔王なんてな、いねェんだ」
「――――ああ」
 考え考えだろうか、ゆっくりと紡がれたそれに、は大きく頷いた。
 メルギトス。
 バルレル。
 そして、サプレスにまだ有数あるのだろう悪魔たちの王。
 だが彼らは、たとえばオルドレイクの欲したような、たとえば人々が物語っているような、そんな存在ではないのだろう。
 だってあそこも、輪廻に繋がる世界のひとつ。循環するめぐり、その一端。
 ――そっか。
「バノッサさんって」、
「あ?」
「ずいぶん変わりましたよね。前だったら、それでもいいって云ってたかもしれないのに」
「手前ェな、知った口を――」
 云いかけて、バノッサは、ちょっぴりバツの悪い表情になる。それは当然、目の前の相手が、十分に知った口をきける権利を保有するからである。何をって、それこそ判りきってるので割愛。
 さてどう反撃してくるか、と少し楽しみにしつつ身構える
 だが、ややあってバノッサが発したのは、当時の話ではあるけれど、方向を異にしたものだった。
「幽霊男の」、
「へ?」
「力を持ってたのは、三つ目のほうか?」
「え――あ、ああ。はい」
 “幽霊”がレイズのことを指していると気づき、はあわてて首を縦に振る。
 あの空間を辞する前、レイズが消えたその直後、漂う力と思念の残滓を、バルレルが見つけて預かったのだ。
 すると、
「……そうかよ」
 何故か、ほんの少しだけ残念そうに、バノッサは云った。
「えーと……それが何か?」
「別に」
「……そーいうお返事だろうとは思ってましたけどねッ」
 がるるるる。
 肩をいからせて唸ってみる。どうせ、バノッサ相手じゃさしたる効果もないのだから。
 そしてそのとおり、バノッサはの怒りを「は」と軽々あしらって、不意に足を踏み出した。――林のなお、奥のほうへ。
「バノッサさん?」
「カノンが探してるようなら、教えていい。他のヤツらには云うな」
 気だるそうに、みぎ、ひだり、足を交互に進ませながら。片方の手をひらひらさせつつ云い捨てて、かつて魔王を望んだ彼は、まるで余人を避けるように、集落の奥へと行ってしまう。
 止めても無駄だと察したは、「はい」とひとつ頷いた。
 だが、
「――」
 何かを思い出したように、足を止めるバノッサ。顔の半分だけをに向けて振り返る。

「……今さらだがな」
「はい?」

 お見送りのため振っておこうと持ち上げた腕を肩のあたりで停止させ、は、首をそちらにかたむける。

「――――感謝してるぜ。赤髪。三つ目にもだ」

「……は」

 他の何でもなく、あの頃用いたそのままの呼称を用い、バノッサはそれだけ云い放つと、放心するを尻目に歩き出す。それまでの、どこか緩慢だった動作が嘘のように、競歩でもしてるんですかと問いたくなるような速度でもって。
 ――あっという間に、彼の後ろ姿木々の向こうへ消えてしまう。その残像が網膜から失せてしまってもなお、は、立ち尽くしていた。

 ……ドオオオォォン……ズドオオォン……

 バノッサが、己の、あまりにもあまりならしくなさに身もだえし、目についた木を蹴り斬り殴り張り倒す、音を鼓膜に響かせたまま。


 そしてどれほどの時間が経ったのか。
 長らく戻らぬを心配し、探しにきたフレイズが見たのは、折悪しくというかむしろ逆か。
 持ち上げ、開きっぱなしだった手のひらを、ぐっと拳に握りしめ、
「――感無量……ッ!」
 よく判らない感慨にひたっている、かつての赤髪少女だったそうである。

 ちなみにここで何があったのか、彼女は頑として語らなかったらしい。