【そして忘れられた島で】

- おかあさんのおとうさん -



 この島の全員がすでに知っていることだが、レックスとアティは、のことを“おかあさん”と呼ぶ。
 そうなるにいたった経緯も、それが出来なかったあの頃のことも、みんな、よくよく承知している。だから彼らは、そんな光景を見て、特に異を唱えるようなことはない。
 だがそれは、島に住んでいる面々に限っての話だ。

「おはようございまーす!」

 砂浜に響き渡る元気な声は、赤い髪を背に流し、白い帽子をかぶって同色のマントをまとう女性のものだ。
「おはようございます!」
 つづいて響くは男性の声。彼女とペアでやってくるとなれば、その候補は限られている。もとい、判りきっている。
 ちょうど食事を終えたところだったは、「あー」と小さくつぶやいて食器を置いた。砂浜でさぞ輝かしい笑顔を浮かべてるだろうふたりとは、似ても似つかぬ焦げ茶の髪が、ぱらりと一筋視界をよぎる。
 片付け当番ではなかったことを確認し、食器を籠に突っ込んで、汲み置きの水で軽くうがい。
 一連の動作で要した時間は、待たせておくには少し長いものだった。
 だが、砂浜から第二声は聞こえない。
 おすわりして尻尾ばたばた振る犬が、なんとなく脳裏に浮かんで消えた。
「おかあさん、呼ばれてるわよ?」
 苦笑して云うミニスに
「うん、すぐ行く」
 軽く応えて、は食堂の窓を開け放つ。
 ひょいっと頭を出して見下ろすと、いたいた。予想通りに、白い帽子と赤い頭が、並んで船の様子をうかがっている。
 レックスとアティ。
 ふたりは窓が開いたことにすぐ気づき、視線をこちらへ向けてきた。
「おかあさん!」
「おはようございますっ!」
 両手をぶんぶん振り回す、一応、島の重要人物。
 だがしかし、今の様子を見ていると、尻尾ばたばた振ってる――以下略。と逢うと子供帰りしまくってるし、とは、彼らをよく知る面々の証言だ。
「おはよー」
 対するはというと、照れくささもあって、いささか挨拶に力が入らなかったりする。
 成人前のみそらで、おかーさんおかーさん連呼されるって、意外でもなんでもなく結構恥ずかしいものなのですよ。おまけに仲間の前だしさ。
 って、
「おっ、と」
 その仲間のひとりが、のしっ、と背中に乗ってきた。
 なんか慣れてしまったこの重みは、マグナだ。
 と思っていたら、
「むぎゅ」
 重みふたつめ。
 確実にトリスだ。
 だがちょっと待て。これはさすがに。
「おはようございまーす!」
「まーす!」
「あんたらあたしを潰す気かー!」
 人様の負担を考えぬ、わんこ三匹目四匹目を跳ね除けて、挨拶も途中でかき消して、はうがあと吠えたのだった。


 ともあれすぐそっちに行くからと、窓からふたりにそう告げて、は食堂を後にした。
 何故かついてくるマグナとトリスを引きつれて。
「……っていうかさー」
「ん?」「なに?」
 船内を小走りに進みながら、ちらり、首を僅かに傾げて目だけで背後を盗み見る。
 視界の端に映るふたりの表情の意味は、あまり深く考えないようにして。
「なんか――レックスとアティのこと、あんまり好きくなくない?」
「あ、それはないよ。嫌いじゃないし」
「うんうん。むしろ好きだよ?」
「その割には、なんかこう――よく、絡むよね?」
 そーなのだ。
 マグナとトリスに限らず、アメルにもそれは云えることだが――レックスとアティとが揃ってひとところにいたりすると、彼ら、何かとちょっかいをかけてくる。
 お出かけだったら同行するし、食事だったら相席するし。
 ぶっちゃけると、レックスとアティに限った話でもないのが本当だ。特に彼らの反応が顕著なのがこの二名、及びイスラに対して。ヴァルゼルドんとこ行くときにはむしろ笑顔で送り出してくれるくせ、なんなんだこの偏りは。
 以上、これまでに気づいたことをここぞとばかりに問いかけると、返ってきたのは、
「あははははは」
 ――とかいう、曖昧微妙な乾いた笑い。
 そうしてトリスとマグナは顔を見合わせ、
「あははははは」
 もう一度、同じように笑ってみせた。
 ――あ。
 気づく。
 このまま笑って誤魔化す気だな。
「ねえ」、
 そうはさせじ。再度が口を開いたのは、そろそろ出口も近くなってきた頃合いだった。
 換気も兼ねて開け放ってある出入口から、もう、外で交わされている会話も聞こえ出すような位置だ。でもってそのとおり、進む三人の耳朶に、レックスとアティの声が飛び込んでくる。
「あ」
「おはようございます!」
 ――どうやら誰かがやってきた、もしくは帰ってきたらしい。
 少しかしこまった口調から察するに、おそらくそれは後者だろう。現在この船で朝食をとっていたのは調査隊の全員ではなく、食事前に身体を動かしに出た者や、とうに一番目の順を終えて散策に出た者もいるのである。
 どうして帰ってきた側、つまり調査隊の誰かだと判断したかというと話は簡単。レックスとアティは、昔ならともかく今は島のひとびとに対して、あんな丁寧な話し方はしない。
 なおかつ、どこかかしこまった感があるということは――
「ああ。良い朝だな」
「お早いですね。に用ですか?」
 ルヴァイド。及び、イオス。
 聞き慣れたふたりの声が、砂浜から船内を伝って、の耳へとやってきた。

 ――そう。
 それならばまだ、なんら変わりない平和な光景だったのだ。

「ええ」
「そうなんです」

 ただひとつ、


「おじいちゃんとイオスさんは、朝の稽古ですか?」


 ――――これさえ、なかったら。


 ずざざざざざざ――――――――――ッ!!

 顔面から床に突っ込んだのが誰かなんて、そのままスライディングしたのが誰かなんて、もはや云うだけ無駄である。
 なにしろ、響いたその音は、きっちりかっちり三人分。
 うまい具合に摩擦とのバランスがとれたのか、トリスとマグナとおまけには、船の出入口で人間そりを停止させた。
 だが――それで体力が枯渇したわけでもないのに、人間そり×3は人間に戻れない。起き上がれない。
 何故か。
 理由は判りきっている。

「…………」
「――ル、ルヴァイド様……」

 そりが滑るには絶好ともいえそうな冷気――いや、大吹雪が、常春めいた陽気に包まれていたはずの砂浜に、吹き荒れているからであった。
 ああ。見える。
 床とキッスしたままの顔面に張り付いた目玉の奥、真っ暗な空と吹き荒れる雪とその只中に佇んでいる赤紫の髪の男性という、荒涼とした凍えそうな景色が――
「見えてたまるか――――!!」
「あ! おかあさん!」
「おかあさん、おはようっ!」
 気合い一発。
 恐怖を根性で押しのけて、が咆哮ともども起き上がると、レックスとアティがそれに気づいて破顔する。
 すぐさま駆け寄ってこようとしないのは、先に遭遇した相手――ルヴァイドとイオスへの礼儀だろう。それは良いことだ。
 良いことだがッ!
「レックス! アティっ!!」
 叱咤の色濃いのことばに、ふたりはきょとんと目をまたたかせ、ほんのわずかに身を震わせた。
「え? ど、どうかした?」
「わたしたち、何か、しましたか……?」
 不意のそれにさえ、彼らから反感めいたものは見られない。
 少しはそういうふうにしてくれたところでバチは当たらないはずなのだが、何十年経ってもやっぱり、彼らは彼らということか。
 やあまあ正直、何かしたのは確かである。いやってほどに確かである。
 当人ら、全然自覚してないっぽいが。
「うわあ――」
 どう切り出したものかと逡巡した隙に、同じくそりから復帰したマグナとトリスが、どこか呆然とした声を出していた。
「あんな打ちひしがれたルヴァイド、初めて見た……」
「あの頃に匹敵するくらいの物悲しさが醸されてる――」
 こちらからでは後ろ姿しか見えないが、その分、ルヴァイドの周囲の空気は強調されている気がする。
 なにやら一生懸命に名を呼んで揺さぶっているイオスのことも、この分では気づいていないに違いない。
「あ、貴方たちはいきなりなんてことを云うんだ!?」
 ひとしきり揺すったのち、イオスはようやく、ルヴァイドの解凍を諦めたらしい。少し時間を置くべきと判断した彼は、焦燥をそのままレックスとアティに向けてしまう。
 だが、
「――なんてこと、って……」
 視線をイオスに戻したふたりは、きょとん、と首をかしげるだけ。
 ……やっぱしあれだ。自覚のないひとが一番厄介だ。
 と似たようなことを考えたのか、手のひらを額に当てて絶句するイオス。
 これじゃ間が持たないと思ったこともたしかだが、唐突な発言の意味も追究しておきたかったは、そこにぞのまま割って入る。
「いやあのさ。レックスとアティね」、
「はい」
「うん」
 良い子のお返事をするふたり。
 後ろから追ってくるマグナとトリスの足音を聞きながら、ほんの少し間を置いて。

「……なんでいきなりルヴァイド様がお爺ちゃんになっちゃうわけよ」

 訊くと、

「え?」
「なんで、って……」

 何故か逆に、レックスとアティの頭上にでっかいクエスチョンマーク。
 ぱちぱち、ふたりは忙しくまたたきし、視線を、とルヴァイドと交互に彷徨わせる。赤紫の髪した男性の背中が吹雪いていることに、そこでようやく気づいたらしい。
「「あ」」
 合唱。
「「あ」」
 硬直。
「「ご、ごめんなさいっ!!」」
 狼狽。
 赤い髪と紺色のマフラー翻し、ふたりはルヴァイドにとりついた。

「す、すみません! あの、違うんです!」
「ルヴァイドさんがお年を召しておられるように見えるとかいうわけではないんです!!」

 がっくんがっくん。
 左右についたレックスとアティが、それぞれルヴァイドの肩を持ってハードシェイク。その勢いは、先刻のイオスのゆうに数倍。
 我を忘れていた黒騎士こと元黒の旅団総指揮官は、なすすべもなく揺さぶられ、右に左にまるで起き上がりこぼしである。
 ――ああ。ルヴァイド様がどんどんコミカルになっていく……ッ!
 彼だけと慕う養い親の姿を見、はちょっぴり涙した。イオスなんかとうに頭を漂白されて苦悩の表情。トリスとマグナに至っては、どういう対応をすればいいのか判らなくて周囲にひよこさえ躍らせているありさまだ。
「えーと」
 これは――この状況は。
 他の誰に、止めることが出来るんだろーか。
 ……なんて責任感を覚えたような覚えないような、ともあれビミョーな心持ちのまま、は行動に出た。
「レックス。アティ。いーからふたりとも止まりなさい」
 赤紫の髪の男性にとっついた赤髪の姉弟を、よっこらせとばかりにひっぺがす。
 素直にはがれたふたりは、促されるまま、ルヴァイドから距離をおいた。
「――す、すまん」
 ようやっとシェイクの渦から脱出したルヴァイドが、そうして、まだ少しふらふらしてる様子ながらも我を取り戻し、を見下ろした。
 そこへ、
「すみません、ルヴァイド様」
 ぺこり、頭を下げる。
 それを見たルヴァイドのみならず、周囲の全員が目をまたたかせた。
「……何故、おまえが謝る?」
 心底不思議そうに問うルヴァイドへ、は曖昧に笑ってみせる。
「えーと。たぶんですね、あたしがレックスとアティの“おかあさん”だからです」
「……?」
 ますます訳が判らない、という表情になるルヴァイド。島に関する出来事も、“おかあさん”についても説明済みではあるが、今回のこれとの関連性を見つけきれないでいるようだ。
 他一同も同じく――と思われたが、ただひとり、
「おかあさんで……おじいちゃん……。――……お母さんで」、
 まるで何かを数えるように、指を折りつつ考え込んでいたマグナが、
「――――お祖父ちゃん――――!?」
 正解に、行き着いた。

 で。

「……」
「……」

 沈黙。しばし。

「「なるほど!!」」

 ぽぽぽん、ぽんっ。
 重ねて響くは手を打ち合わせる音。リズミカル。
 それに重ねて、

「そうなんだ!」「そうなんです!」

 判ってくれましたかとばかり、喜色に顔をほころばせるレックスとアティ。
がおかあさんで、ルヴァイドさんがその養い親だろ?」
「わたしたちから見たらそういうことになるのかなって」
「それに、俺たち、祖父や祖母のことは本当に全然知らなくて。だからそれに気づいたときさ」
「おじいちゃんがいたらって気持ちが叶えられたようで、とても嬉しかったんですよ!」
 これぞまさしく、立て板に水。
 時期を考えるに、たぶん、夜をひとつ挟むかどうかというくらい遡ったころ思いついたに違いない。
 そんなふうに目を輝かせて説明するレックスとアティが嬉しそうなのは、まあ、喜ばしいことだ。
 だがほんの少し視点を変えるならば、そもそもこのふたり、二十年ほど前すでに成人済みなのである。姿が変わってないことを無視し、実年齢を考えるなら、とっくのとうに半世紀(判り易く名も無き世界の西暦で云えば)近く生きているのである。
 対しては、今年だか来年だか成人予定の若造であるし、ルヴァイドにしたって二十年前にはまだお子様であったはず。
 立場と年齢の、完全な逆転現象だ。
 というようなことを思ったのかどうかはさだかではないまま、ルヴァイドが、苦笑いしつつ口を開いた。
「気持ちは判らんでもないが、出来ればそれはあまり使わずにおいてくれぬか」
「あ――はい!」
「ごめんなさい、つい出ちゃって」
 今後は気をつけますね。よもや否やのあろうはずもなく、にこにことそれを受け入れるふたり。
 そんな、にわか祖父と孫を眺めていたトリスとマグナが、いったいどうしてそうなるのか、顔を見合わせ頷きあう。
 や、いなや。
「はい、はい! は俺たちのお母さんみたいでもあります!」
「というわけで、ルヴァイドもそんな感じに今日から思っていいよね!?」
 元気に挙手してそんなことをのたまった。
「――な」
 クレスメント兄妹の不意打ちめいた宣言に、ルヴァイドもも絶句する。
 だが、とうの養い親子がそんな羽目になっているのに、赤髪ふたりと紫髪ふたりは、何故か笑顔で手を打ち合っていた。
「まあ、それは賑やかになりますね!」
「家族は大勢の方が楽しいよな!」
「きょうだいがたくさんって憧れだったのっ!」
「ナップたち見てると、すごく楽しそうだしさ!」
 ……いや、仲良しなのはいいんだけど。
 祖父と親にされてるこっちの意見は聞く耳持たずか君ら?
 怒涛のよーに増えてく自称家族らを呆然として眺めていると、ふと、視界に金色がよぎった。イオスだ。
「……頼むから、にもルヴァイド様にも、おかあさんとかおじいさんとか、僕たちの前で呼びかけないでくれないか」
 こめかみに当てた指としかめられた眉は、明確な困惑を表現していた。
 当人は当人でしかとらえたことのないイオスにとって、それから、調査隊の面々にとっても、そこを捕まえていきなりおかあさんだのおじいさんだの、いったいなんの喜劇だ状態なのだろう。
 ――あはははは、と。その頭上から聞こえる複数の笑い声は意図して無視。そりゃ、足元でこんな騒いでたら覗かないはずもない。笑っちゃうのも理解は出来る。
 でも理解と感情は別。覚えてろギャラリーども。
 さておき、とても大幅な譲歩と妥協を示したイオスのことばに、頷く雁首揃った四つ。
 ――だがたぶん、ぽろりとこぼれたりするんだろう。彼らはそういう性質である。まごうことなく断言出来る。
「すまんな。助かる」
 それでも言質をとったことに変わりはないせいか、安堵を見せつつルヴァイドが頷いた。
「すみません、なんかあたしのせいでいろいろ驚かせて」
「気にするな」ぺこりと下げた頭を、大きな手のひらが優しく叩く。「事情が判れば納得も出来る。慕われているようで、何よりではないか」
「――えへへ」
「ふ」
 もちろんに、そのことばを否定するようなつもりも事実もない。
 照れ笑いを隠すようにルヴァイドの胸元に飛び込むと、あたたかな苦笑が降ってきて、再度頭を撫でられた。

「――――」

 と。
 ここで飛びつきが出るかと少し覚悟していたは、数秒経過してもそれがないことに、疑問符ぽつり。
 ぺったりルヴァイドにくっついていた身体を少しだけ離し、周囲の子供とか孫とか見渡して――「どうしたの」目を丸くした。
 トリスもマグナもレックスもアティも、ちょっぴり、ぽかん、と。だけどそれ以上に――なんというのか、もどかしそうなじれったそうな、そんな表情や雰囲気で、とルヴァイドを見ているばかり。
 ただ一人、イオスだけが、どこか悟ったように腕を組んでいる以外、他の面々の浮かべているものはひどく似通っていた。

「……?」
「――?」

 顔を見合わせるとルヴァイド。
 そんなふたりを見て、周囲の面々は今度こそひとりの例外もなく、「――はあ」とため息をついていたのであった。


 ……蛇足。

「つくづく、入り込める隙間がないよねー」
「全然変わってない、っていうかむしろ強固になってるよな」
「おかあさんはおかあさんの前にルヴァイドさんの子なんですね……」
「後からぽっと出の俺たちじゃ、まだまだってことか」

「…………もう、僕は待つのやめようかな」

 少し物騒な小声はさておいて。
 オチがどこかと似てるのは考えちゃいけない気にするな。

 とりあえず、最強はいつでも父と子なのだということである。