ふと足を向けた狭間の領域では、フレイズが手ごろな岩の上に座り込み、頬杖ついて“考える天使(ひと)”になっていた。
「……どうしたんですか?」
「……」
どんよりしているわけではないのだが、ひどく苦悩している雰囲気に、気づかぬ振りして通り過ぎればよかったかもと後悔した。が、時すでに遅し。
けれども、そんなの問いかけに、フレイズは瞼をやや伏せたままこちらを一瞥しただけで、特に何を云おうともしない。
これはもしや、訊かれたくないたぐいの悩み事なのだろうか。美形は憂えても美形だ。いやこれはどうでもいい。
「あ、すいません。お邪魔しました」
さっさと判断を下したは、それだけ告げて立ち去ろうと踵を返す。
「だわ!?」
その目の前に、ふわりと、淡い銀色の燐光が出現していた。
――ファリエルだ。
「うっ、わ。わ、びっくりした!」
「ぷー!!」
「あ、驚かせてしまいました?」
ごめんなさい、と云いつつも笑みをこぼしつつ、ファリエルはふわふわと宙に浮いている。
もうここ数年は、あの鎧をまとうこともないらしい。サプレスの霊気漂う狭間の領域を背景に浮かぶ銀色の少女は、確固とした現実でありながらも、どこか、やわらかな幻想めいていた。
頭から落ちかけたプニムを手で支えてやりながら、は、ほう、と胸をなでおろして動悸をしずめる。
「や、まあ、気づかなかったあたしが悪いんだけど」
「外ならともかく、ここはいろいろと混じっちゃいますからね」
さりげなくとりなしてくれたファリエルは、次に呆れた表情になると、視線をから動かした。云うまでもなく、己の副官であるフレイズへだ。
とファリエルのやりとりへ対することばを探しあぐねているらしい天使を一瞥したあと、その視線はすぐにこちらへ戻って来る。
「フレイズったら、さっきからずっとこうなんですよ」
「ぷー?」
さっきって何さ? そんな疑問符浮かべたプニムの鳴き声が、そのままの問いを代弁していた。
「それがですね。さっき、トリスさんとアメルさんがここを訪ねられたんですけど」
「アメルが」おうむ返しにつぶやいて、「――ああ」
直後、は即座に解答を得た。
未だ判らぬプニムが、今度はへと疑問符を向ける。その身体を軽く撫でてやったは、ファリエルとフレイズを交互に見やってにんまり笑った。
「アメルとアルミネのギャップに、びっくりしたんでしょう」
「ええ、実は」
くすくすと笑ってファリエル。
「もっと神々しい方かと思ってたのに、さんや私とあまり変わらない感じで……かわいらしいひとでした」
「まあ、年は本当に、あたしとどっこいですしね」
「……そもそも、何故教えてくださらなかったんですか」
ここでようやっと、フレイズが会話に参加した。
位置も姿勢もそのままの彼からほんの少し恨みがましげな視線を向けられたは、彼に照れ混じりの苦笑いを返す。
間違っても怯んだり後ろめたくなったりしてないあたり、確信犯(本来と違う意味での)っぷりが伺えようというものである。
「実はこれが見たかったんですとか自白しちゃったりして」
「――」
半ば予想していたのかもしれない。がっくり、フレイズは項垂れた。
「あはははは」
「もう、さんったら」
困ったように笑うファリエルも、そう云いながら口調はやわらかく、咎めるような含みはない。たぶん、楽しんでいるんだろう。
だがしかし。
プニムにはそんなこと期待出来ないとして、そうなると、誰もフレイズのフォローをするような者がいなくなってしまう。彼は未だ立ち直る様子を見せないが、精神生命体である天使をこのまま放っておくと、ちょっとまずいのではなかろうか。
「でも、フレイズさん。アメル、楽しそうだったでしょ?」
だからというわけでもないが、そもそもフレイズがそこまで考え込む理由は未だに見当がつかない。とりあえずお伺いを立ててみると、金髪天使は「ええ」と頷いた。
「あの方はすでに、かつてアルミネとして培った在り方よりも、アメルという女性として生きておられます。――それを心より歓んでおられることもまた、よく判りました」
「それなら」
いいじゃないですか、と、笑ってみせる。
「フレイズさんの理想は瓦解したかもしれないけど」
「いえ、それはいいんです」
ところがどっこい。予想に反して返ってきたのは、そんなセリフだった。
当然、とプニム、ファリエルは顔を見合わせる。
「じゃあ、何をそんなに考え込んでいるの?」
「…………」
問われたフレイズは、今度こそ沈痛な面持ちで、深い深いため息をひとつ。
「アメルさんは、芋がお好きだそうですね」
「え? ――あー。ああ、好きですね。山で暮らしてるとやっぱりそのへんが主流だからかな」
魂の輝きを重視するフレイズが、今さら、相手の好物程度で打ちのめされるわけもないんだろうが。
いまいち方向性のつかめぬ問いに答えたの傍らで、ファリエルが再度問いかける。
「そう仰ってたね。それが、どうかしたの?」
「ファリエル様とさんは、オウキーニさんの……かつてジャキーニさんが面倒を見ておられた畑をご存知ですよね」
「……ああ」
うん。こくりと頷くファリエルと。
幻獣界集落ユクレス村。そこには、村人たちの食糧を一手にまかなう巨大畑がある。
かつてジャキーニが野菜泥棒の償いをするために働(かされ)ていたその畑、オウキーニとシアリィ夫婦をはじめとする村の人たちのおかげで、今も村一番の良地として毎年豊かな実りを提供してくれるそうだ。
「その一角に芋畑があることは?」
「知ってる。アティとレックスがたまにモグラ退治に行ってたとこでしょ?」
「……それなのです」
「どれなのです」
「あ」
おうむ返しにつぶやいたとは逆に、ファリエルが手を打ち合わせた。
「そういえば、ユクレスに向かうって……でも、それなら畑を見たら喜んでくれるんじゃない?」
だろうな、とも思うのだが、フレイズの表情はまだ晴れない。
「ところが――畑には、モグラがまた大量発生しているそうなのです」
「またー!?」
当時さんざんレックスたちにやられたにもかかわらずか。しぶとい。
いや、もうとっくに世代交代してるんだろうけど。
叫ぶをちらりと見やったフレイズは、そこでとうとう、頭を腕で抱え込んでしまった。
「愛する芋畑がそんな惨状なのだと知られたら、あの方はどれだけ哀しまれるか――」
「……」
「それを思うと、これまでなんらモグラ殲滅に対して無策であった己が、もう、情けなくて情けなくて……!」
「……」
さようですか。
っつーかフレイズは霊界集落狭間の領域の副官なのであって、別にユクレス村に対して何か責任があるわけじゃない。いや、完全にないわけでもないのだが、他集落から何かの要請でも無い限り、様子伺いをするならともかく口出し手出しをするのは、相手集落の護人やまとめ役に対して失礼なことにもなるんじゃなかろうか。
第一、ユクレスのみならず島のひとは基本的に大らかだし、モグラにしたって芋根絶とかさせられたんでなければ、限度を越えたときだけ懲らしめてたって感じだろうし。
たぶんフレイズは、アルミネへ持ってた憧れとかがそのまま反動で嘆きに加算されてるんだろうと思われる。
いやそもそも、ここで苦悩してるくらいなら、それこそ今からでも芋畑に飛んでってモグラ駆逐すればいーものを。このへんやっぱり、フレイズがフレイズたる由縁なのか。ファリエルかかってると、夜中でも躊躇わずレックスに手袋投げたくせして。
――とまあ、そんなこんなの一連の思考に要した時間は数秒程度。
とりあえず、は、自分と似たり寄ったりの表情をしているファリエルと一度視線を見交わすと、ぽん、とフレイズの肩を叩いた。
「アメルがショック受けるとかいう話なら、心配要りませんって」
「ですが――」
はその場にいたわけじゃないが、アメルの持ってる芋への愛を、フレイズともしかしたらファリエルも話すなり見るなりしたのだと思われる。
でなくば、単に芋好きってだけでこんな大事紛いになりはしない。
一見たおやかな少女でしかないアメルの外見も、きっと相乗効果。
――一見。そう。一見、なのだ。
「あのですねー。フレイズさん、アメルを誰だと思ってるんですか」
「……え?」
アメルさんはアメルさんでしょう?(加えて、元豊饒の天使アルミネ)と云いたげに疑問符浮かべたフレイズへ、はかぶりを振ってみせる。
「アメルはですね――」
そして、呆れられるか納得されるかだろう解を告げようとした、まさにそのとき。
まるで見計っていたかのように、
――キィン、
「え」
「これは」
只人にはとらえきれぬ、鈴の鳴るような共鳴の音を。
たぶん、フレイズとファリエルは聴いた。
――リィィィィィィィィン……!
護人と副官がそれぞれ耳を押さえた刹那に続き、今のでもとらえられる異変が発生する。
ちゅど―――――――――ん!!
間の抜けた、だが、威力だけは折り紙何十枚とくっついてること確実の爆音。僅かに遅れて届く震動が、の足元を揺らして散った。
そうして方角を確認。ユクレス村からで間違いなさそうだ。
「…………」
「…………い」、
「今のは何か?」
こくこくこくこく。
必死に頷くフレイズ。この反応から予想されるのは、今しがたの音の原因が、さんざ話題に上がった彼女であろうということ。
……モグラ、よっぽど、我が物顔に畑荒らしてたんだろーなあ……
気絶させられたか昇天を強いられたか。
どちらにせよ、しばらくは畑に近寄りたくなくなるくらいの痛い目を見たろうモグラへそっと黙祷し、にっこり、つくるは極上の笑顔。
「アメルは」、
天使とか、聖女とか、そんなのよりもまず。
「――“あたしの仲間”なんですよ?」
したたかすぎる成長を遂げつつある“仲間”に、あとで渾身の芋料理をお願いしようと思いつつ、は、トドメとばかりにそう告げたのだった。
ちなみに、同行していたトリスはその時の話を訊かれると、ちょっぴり蒼ざめて虚ろな笑いをこぼしていた。傍らのアメルは対照的に微笑んでいたけれど、どちらも結局証言はなし。
強くなりたいと、あの旅の最中に願った聖女は、立派に成長しています。――きっと。