夜の帳に包まれて、しんとした静けさに覆われた、そこはデグレア軍の駐屯地。
国から少し離れた台地に、模擬戦闘訓練のために遠征してきたのだ。
昼間の訓練で疲れているのか、見張り以外は泥のように眠っているようだ。
軍の将であるルヴァイドの天幕も、先ほどまで灯りが点いていたけれど。
今はもう、ほとんどが暗闇に包まれていた。
イオスは、ちょうどその晩の見張り役だった。
敵が攻めてくる可能性は低いせいか、かなりの間隔を置いて二人一組で配置されている。
隣の組はというと、目をすがめてようやく見える辺り。
木に寄りかかってそんなことを考えていると、組になった相手が声をかけてきた。
「イオス、寒くない?」
――。
まあ、ある意味当然の判断……なのかもしれない。
何せはルヴァイドの秘蔵っ子。
イオスはこの間入隊したばかりの帝国人。
まだまだ、イオスに対して警戒心を抱いている兵も、存在しているわけで。
当番でまわってきた見張り役のペアに、が立候補したのも、その風当たりを考えてのことだろう。
「君こそ。……戻っていてもいいんだぞ?」
どうせ敵が攻めてくることは、ないだろうし。
そう云うと、まだまだイオスよりはるかに小さい女の子は、ふるふると首を横に振る。
「あたしは平気。でも、イオスはまだデグレアあたりの気候慣れてないでしょ?」
「だいじょうぶだよ」
すでに何度も、攻め込もうとしていた国だ。
それに軍人たる者、多少外気が低いくらいで音をあげていてはお話にならない。
そっか、と。
つぶやいて、がイオスの寄りかかっている木の根元に腰かけた。
見張りがこんなことではいけないのだろうが、たぶん誰もが見て見ぬ振りだ。
現に、離れた場所に見える別の見張り組みだって、呑気に雑談しているっぽい。
「あ、流れ星!」
「え?」
ぱっと、が指差した方を振り仰ぐ。
すぅ、と、星が尾を引いて流れた光のあとが、一瞬だけ視界に映った。
「・・・お願いし損ねた・・・」
流れ星を目にした瞬間まぶたを閉じて、一心に念じるような仕草をしていたが、がくりと肩を落としてつぶやく。
「お願い?」
「うん。流れ星に3回お願いすると、それが叶うんだって」
2回までは云えたのになー。
ぶつぶつ云ってる、そんな様子がいかにも年相応で。
思わず笑みこぼすと、はそれを茶化されてるととったらしい。
余計に不機嫌そうな顔になっているが、生憎、目が笑っている。
「……最初はねー」
「うん?」
視線を空に戻して、ぽつり、はつぶやく。
「最初はね、月がすっごく大きいのが怖かったんだ」
蒼く。白く。
銀に。金に。
かがやく、月。
「あたしの世界ってね、月ってもちょっと小さかったから。初めて見たとき、びっくりして部屋のなかに逃げ込んじゃってねー」
「君の世界?」
「うん。あたしが、デグレアに落っこちる前にいた所」
ああ――
いつか話してもらったことを思い出して、イオスは頷いた。
異界の子なのだと。
デグレアに、何者かの手によって喚び出された、界の迷子なのだと。
「お父さんとお母さん、どうしてるかなあ……」
「願いは」
え? と。
ことばを遮るように、早口に。
告げられた問いに、がきょとんとイオスを振り返る。
「……さっき、なんて願おうとしたんだ?」
変だな、と。
どうしてこんなに、心臓が締め上げられるような感覚を訴えるんだろう、と。
考えながら。
少し、かすれた声を自覚して……問うた。
「ええとね。うちに――」
そうして、開かれたその口が、ことばすべてを紡ぐ前に。
イオス自身もその場に腰を下ろし、を腕に閉じ込める。
お互いまだ、少年少女と云って差し支えない年だけれど、やはりの方がずいぶんと小さかった。
・・・子供なのだ。まだ。
こんなふうに、軍人としての立場を確保していても。
姿も。年齢も。まだ。
自分より、ずっと小さくて。
「イオス?」
「……ここじゃ、君の家にはならないか?」
もぞもぞと。
腕のなかで身じろいでいた子の動きが止まる。
そこにたたみかけるように、つづけた。
否定を、聞きたくなくて。
「君の両親にはなれないかもしれないけど、僕じゃ、君の家族になれないか?」
「……イオス」
少しの、間。
だけどそれは、ひどく長く感じた。
そうしてそのあと。
くすくす、と、小さな笑い声が零れる。
「変なの。イオス。ルヴァイド様と同じこと云うんだね」
「・・・え?」
「おんなじこと。最初にルヴァイド様、云ったの」
おまえの父と母は、この世界にはいない。
いつか戻れるかもしれんが、それまでは顔も見れん。
……それでも。
それでもおまえが、ここで暮らしていこうというなら。
それだけの覚悟があるなら。
「両親の代わりにはならんだろうが、いつでも頼れ、って。……それって、家族になろうってコトだよね?」
なんとなく。
先を越された気分がした。
けど。
それも覆い尽くすような、安堵がイオスの胸に生まれる。
だいじょうぶ。
は、強い。
それは、最初に出逢ったときの彼女からも明らかだけれど。
……この子は、きっと、だいじょうぶだ。
「生まれた家はやっぱりあっちだけど、ここも、あたしの家だって思うから」
「・・・そうか」
「イオスは?」
デグレアに来て少し経つけど、そんなふうに思ってる?
思ってると嬉しいなあ。
暗がりのなかに、地面に置かれた小さな灯りに照らされて。
はっきりと顔に書いたが、イオスの腕のなかから見上げてきた。
表情がほころぶのを悟りながら、またその子を抱きしめる。
「……うん」
腕のなかで。
小さく笑ってる、のぬくみを。確りと焼き付ける。
「君とルヴァイド様が、僕に道をくれた」
死しか見えていなかった、あの昏がりから。
引っ張り出してくれた。
「……だから、ここが僕の居場所だよ」
「うん!」
満面の。笑みを浮かべてが云う。
イオスも、同じように微笑んでを見ていたけれど。
――つと。
を閉じ込めていた腕を片方外して、その頬に添えた。
最初は額。
次に目元。
次は頬。
最後に、唇のすぐ横。
くすぐったいよと云いながら、それでもは、笑みに紛れて頭がかすかに振れる程度。
抵抗の欠片さえ見えないのは信頼をもらえてるとうぬぼれていいのか、それとも、まだ何も知らないせいか。
・・・両方なんだろうか。おそらくだけれど。
だからもう一度、頬に口付けた。
「挨拶だよ。これ」
「そうなの?」
「うん。家族のね」
「へー・・・?」
じゃあ。
そう云って、が身体を持ち上げて、イオスの頬に手を添えて――
「こんな?」
「そうそう」
頷くと、同じようにも頷いた。
「よしっ、じゃあ明日ルヴァイド様にも――」
「だめ。」
なんで?
口よりも目で、が訴える。
苦笑して、彼女の髪を数度梳いた。
これぐらいは、独り占めしたっていいじゃないか。
誰に云うでもなしに胸中でごち、真顔でを見下ろして。
「成人する前の人間しか、出来ないから」
「・・・そ、そうなの?」
「そう」
よっぽど素直なのか馬鹿正直なのか、はすっかり真に受けてしまっていた。
イオスに負けないくらい真面目な顔になっているが、逆にイオスは笑い出しそうなのを必死で堪えていたのである。
「」
ぎゅう、と。
息苦しくない程度に、強く抱きしめた。
「……一緒にいよう」
心の奥で淡く生まれた感情に。まだイオスは気づいてないけれど。
優しいこの空気を、とても大切に思うのは本当だから。
「うん」
「ずっと」
「うん」
「……約束だ」
「うん」
ついばむように。
軽く、触れるだけの一瞬。
触れた箇所が、灼けるほどの熱を、確かに感じた。
「……約束?」
「ああ」
大人になったら出来ないけどね。
牽制のために、そんなことを付け加えるのも忘れない。
戯言でしかないはずのそれを、はしっかり頭に叩き込んだらしい。
うんうん、と、何度も頷いて。
「そういえばさっきのお願いね――」
「別に、もういいよ?」
「やだ、云いかけてやめるの好きじゃないし」
誰が聞いているわけでもなかろうに、自然とふたりとも小さな声になる。
「うちに帰れなくても、あたしはここで元気だから。お父さんとお母さんも、元気でいますように、って」
その願いが。
遠い世界の果てに届いたのかどうかは、今は知るすべもなかったけれど――
「ねね、のファーストキスの相手ってイオス?」
「・・・ふぁーすときす?」
「うわ知らないの!? 初めてキス……いや、こう口付け交わした人ってことよ!」
「……あ、それならイオスだけど」
そんな会話が、数年後に交わされて。
「うっわー、もー、なんだよイオス! 自分がちょっと長くの傍にいたからって役得ばっかりじゃねーの!?」
「知るか、そんなもの。目の前にある機会を最大限利用して何が悪い?」
「……策士だコイツ……」
「・・・策士だな・・・」
その数秒後に、そんな会話もあって。
「でも、キスって大人になったらダメなんだよね。イオス?」
「ああ。約束のはね」
『・・・・・・は?』
「へ? 大人になってもしていいキスってあるんだ?」
「あるよ。例えば……」
『だーーーーーーッ! やめろーーーーーーッ!!』
そんな騒ぎまで、起こっても。
「ルヴァイド、止めんでもいいのか?」
「構いませんよ、アグラバイン殿。……イオスももう子供ではないのですし」
だからよけい危ないんだっちゅーねん。(誰かの心の声)
そんなふうに、ルヴァイドからの信頼を勝ち得てるイオスが。
とりあえずその時点で、最強候補らしいことは。
確定済み、なのであった。
傍にいるよ。ずっとずっと。
・・・約束したから。ね?