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空は青く。
海も青く。
ただ、ただ世界は青く――蒼く。
鮮やかに萌ゆる木立ちを抜ければ、崖から見渡せるのはそんな風景。
わずかに潮のにおいを含んだ風が、心地好く髪を巻き上げる。
「…………」
そのまま、背中から、やわらかな下草のうえに倒れた。
軽い衝撃とともに、地面はあたたかく受け止めてくれる。
身体の上を吹き抜けていく風を、胸一杯に吸い込むと、自然、目は細められ、口元は弛む。
「ぷ」
とことこ、少し遅れてついてきていた彼女の相棒が、一声鳴いて横に並んだ。弾力故か、一度だけ跳ねて、地面に寝転ぶ。
「ぷぷー」
とことこ、
「ぷっ」
とことことこ、
さらに遅れてついてきていた、そのお嫁さんと子供が、それぞれ鳴いて、同じく並んだ。
人がひとりに、召喚獣が三匹、大・中・小。
何をするでもなく、彼らは、舞い遊ぶ潮風の向こう、飛び往く白い雲を見上げる。
――普段なら、その後、二三時間ほど昼寝を堪能して、家に戻るのが彼らの日課だった。
だが、
「ここにいたか」
「……あ」
重々しく草を踏みしだく足音がして、予定外の人物が姿を見せた。
島にとっての客人でもある人物、ましてひとところでなくゆかりのある相手の声に、寝転んでいた人物はあわてて身を起こす。
そのまま立ち上がろうとしたのだが、そこで、やってきた相手が手のひらを突き出して留めた。
「構わん。どうせ、すぐに行く」
訊けばここらだろうと云うから、顔を見に来た。
「そうですか。それは――ありがとうございます」
戸惑い、というか、少し呆気にとられたままそう云うと、相手は、低く喉を鳴らした。笑ったんだろう。
常に閉じられた隻眼、鍛えぬかれた体躯から受ける鋭い印象が、このときばかりは少しだけやわらぐ。
「それから」、
顔を見に来ただけではなかったらしい。何やらつぶやいて、相手は懐から何かを取り出した。
「……あれ?」
そして、取り出すなり無造作に投げられたそれを反射的に受け取り――受け取ったものの、浮かぶのは疑問符。
なんでこれが、今ごろ、そして、かつ、よもや――ここに?
手の中で転がす。
「あれ?」
なんだか、見覚えのあるそれより、随分と新しい気がする。鞘も柄も、まだ一度も使われたことがないみたいに、手垢ひとつ見当たらない。
あの頃見ていたそれは、それこそ、かなり使い込まれた印象だったのに。
短期間とはいえ、己の懐に呑んだこともあるそれだ。記憶違いだとは思い辛い。
いったいどういうことだろう、そんな疑問符込めた視線を、だが、相手はいささか趣を異にしてとらえたらしかった。
「ひとつの魔剣を打つ場に、別の剣があっては妨げになるのでな。終わるまでおまえが持っていろ」
「あ、はい――いや、そうじゃなくて、……これ」、
どうしてここにあるのかと。
あのとき、彼女とともに、遠い時間の果てに行ってしまったはずではなかったのかと。
「欲しいのか?」
「い、いいえ」
怪訝そうに片方の眉を跳ね上げつつ投げられた問いに、あわててかぶりを振った。
だって、これは彼女のだ。
些細な違いがあったとしても、それだけは絶対変わらないだろう真実だから。
「まあ、欲しいと云われても譲るわけにはいかんが。いつか再びまみえた折に、渡さねばならんものだからな」
どことなく好戦的な口調でそう云う相手は、すでに身を翻しかけている。
その背に、
「どうしてこの剣はここにとどまっているんですか?」
紡ごうとした問いを、だけど、飲み込んだ。
代わりに、
「――まみえる――」
遠い遠い約束を思い、つぶやいた。
うむ、と、応じる声。
「時のからくりとは愉快なものだ。……納得するまでが難しいがな」
だが、名も対処も、そうでなければ説明がつかない。
ただ聞いただけなら理解し難いそのことばを聞いて、
「……」
知っているんだ、と、肩の力を抜く。
「そうですね、本当に」
よどみなく応えを返し、改めて、立ち去る背に声をかけた。
「じゃあ、お預りします」
「うむ。任せる」
それを胸に抱いたまま投げたことばに、巌の背中は鷹揚に応じた。
立っているときより強く、だけど寝ているときより弱く、かおる緑を感じながら、遠ざかる背中を見送った。
きっとあのまま、相変わらず謎だらけの店に赴いて、作業にとりかかるつもりなのだろう。
そのために、彼はわざわざ、この島を訪れてくれたのだから。
――もう、何年も前から砕けたままになっていた、あの真紅の剣を鍛えなおすために。
破壊されたことで、すでに自分の手を離れてしまった、紅の剣。
だけども、それがどんなふうに生まれ変わるのかというのは、少し、いや、とても楽しみ。
かつて碧の賢帝が果てしなき蒼へと昇華されたように、紅の暴君もまた、新たな形へ生まれ変わるのだろうから。
たとえそのとき、この手がそれを掴めないとしても。いや、もう掴めなくたって惜しくなんかない。その昇華を目の当たりに出来るなら、ただ、それが嬉しくて楽しみ。
また寝転びなおす気も失せて、剣を抱いたまま座り込んでいると、その膝を小さな手が叩いた。小さいとはいっても、隣とその隣と比べるなら、一番大きな手ではあるけど。
「ぷ」
「ん。気になるかい?」
君の大好きな、あの子の剣だものね。
微笑んで、剣をその手に乗せてやる。
小さな手の主は、それをとろうとはせぬまま、ぽふぽふと手の上で跳ねるその感触を楽しむかのように、目を細めた。
「ぷぅ?」
「ぷーぅ?」
お嫁さんとその子供が、なんだろう、と疑問符浮かべてそのやりとりを見る。
「ぷい、ぷぷー、ぷーう」
応えて、剣で戯れていた一匹が振り返って、何事か伝えた。
すると、二匹は疑問符消して、納得したようにこくこく頷く。
ふふ、と、意識せぬままに笑みを零して、意識を三匹のやりとりから剣へと戻す。
自分の目の高さまで掲げて、少しだけ、鞘から抜いてみた。
「――――」
きらり、陽光の反射だけでは説明つかぬほど、強くあたたかく輝く刃。
白く、真白く。――焔のように、揺らめく輝き。
あのとき結局使わずじまいだった、白いちからの残滓が、呼応するように鼓動を打った。
「……いつ」、ここまで条件が揃ってしまえば、その姿を思い出す。何より誰より鮮やかに。「来るんだろうなあ……」
つぶやく口調に、恨みがましいものはない。
いつかって云ってたんだから、いつかはくるんだろう。
……そりゃあ、出来ることなら、早く来てほしいのが本音なんだけども。
「君も、逢いたいよね?」
「ぷー」
家族とわきあいあい、やってた彼女の相棒に水を向けると、ぽん、とひとつ跳ねて応えが返る。……たぶん肯定。
「だよね」
微笑んで、もう一度地面に倒れ込む。片手は剣を握ったまま頭上へ伸ばし、もう片手をその手首に添えて。
倒れたはずみだろうか、さっき抜いたときにきちんと鞘に戻さなかったせいだろうか、判らず、そして気づかぬまま、鞘がぽとりと草の上に落ちた。風にそよぐ草はやわらかくそれを受け止め、誰にその事実を知らせない。
そうして知らぬまま、
「あーあ……逢いたいなあ……」
とくんとくんと、裡と手のひらから届く、あたたかな鼓動に意識重ねて、
「――――」
そう呟いた。
――――瞬間。
声が聞こえた。
「……え?」
幼馴染みのお姉さんの家、樋口さんちからの帰り道。夕暮れ或いはたそがれ時。
明日の誕生日パーティを思って、機嫌よく走っていた足を止めさせたのは、不意に聞こえた声だった。
「……なに?」
それは声。――喚ぶ、声。
立ち止まり、左右を見渡す。
まわりの家から零れる灯り、漂ってくる、ご飯のにおい。
だけど道には誰もいない。
だけど、
「……?」
それは声。
たしかに、自分を喚んでる声。
もう一度左右を見渡す。誰もいない。
ならばとばかりに転じた視線は、頭上へ。空へ。
そしてその双眸に、映し出される――ほとばしる光の奔流が。
「なっ、何!?」
不意に手元から溢れ出した光に気づかぬほど、鈍感ではない。
さっき以上の勢いで跳ね起きて、伸ばしたままだった手を引き寄せれば、煌々と――轟々と、その剣は輝きを放っていた。
まるで奔流。まるで嵐。
いったい何が起きているのか、考える前に身体が動く。
草の上に落ちていた鞘をかぶせようと、空いているほうの手を伸ばしたとき――
「ぷー!」
「……えっ!?」
きらきらと、宙の一箇所が輝いた。
くどいくらい見慣れた感のあるそれは、召喚術によって喚び出された対象が出現するときのそれと酷似、いや、同じ。
そうして小さな青い手のひらが示す先は、彼らの陣取っている崖の向こう。
率直に云ってしまうなら、青い空の下で――青い海の、真上。
「ま、まさか……っ!?」
冷や汗なんてものじゃない。血の気が音をたてて引いていくのを感じながら、今度こそ立ち上がった。
だから、見れなかった。
三匹のうち、一番大きな手の主が、一番小さな手の主へ、小さな光を渡したこと。
「……ッ!?」
崖のふち、ぎりぎりまで辿り着いてもなお、光の輝く場所は遠い。
あんなところから出現するのでは、出たと同時に海へ真っ逆さま。高さもあるから、悪くしなくても全身打ちつけて――
嫌な想像が脳裏だけじゃなく全身を苛み、叫んだつもりのその名は掠れて、ささやかな呼気にさえ負けるほど。
そして。
「え」
顕れる――少女。見慣れぬ衣服の。見慣れた赤の。
こちらに背を向けた姿勢のせいで、顔立ちは見えない。だけど、きっと眼の色は翠。
そして。
「――え――!?」
腰に佩いている、今、こちらの手にあるものと同じ剣。
これで呆然とせずに、愕然とせずに、自失せずに――いられるような者は、たぶん、いまい。
こちらも例に漏れず、立ち尽くす。
抜き身の白を手にしたまま、鞘におさめられた白とその持ち主を凝然と見据え、
「ぷっ!」
勇ましいかけ声とともに、横を走り抜けていった一番小さな影を視界にとらえ、そこで、はたっと我に返る。
「あ……っ!? 危な――――」
まさかあんなところまで助けに行くつもりなのかと、その影を捕まえようとした手は、けれど間に合わない。
勢いあまって、下草散らしながら倒れ込むと同時、小さなその影は、勢いよく地面を蹴った。
そして。
――――消える。
「……な……」
ひゅう、と。風が一度だけ強く吹いた。
嘲笑うように、ではなく、慰めてくれる、ように。
巻き上げられた黒髪を手で押さえ、見つめる先には、もはや何もない。
ただ、青い空。
ただ、青い海。
ただ、そよぐ風。
輝きも、赤も翠も、そして飛び込んでいった小さな青さえも、そこにはない。
「……………………」
目も口もまん丸に見開いて、微動だにせぬまま数秒――数分。
「……」
もう目にすることはないと思っていた姿。
ここにある、もしくは遠い時間の果てに行ったはずの剣。
輝いていた空間。迸っていた光。
飛び込んで、そして、消えた小さな子。
――常に彼女の傍らに在った、小さな子。
「……っ!」
振り返る。
髪が乱れるとか、そんなことを云ってもいられない。
「まさか――今のは――!」
「ぷ」
あの子の傍らに在ったその子は、ぽん、とひとつ跳ねて笑った。頷いた。
「…………は」、
培われた習性で笑おうとするものの、それはどこか引きつったものにしかならない。
笑うしかないと思うのに、笑えない。
驚愕とか、動揺とか、そんな感情極まって……笑ってしまうしかないのに、肉体の反応は鈍かった。
それでもどうにか、動く限りの神経筋肉総動員し、のろのろと、剣を鞘におさめた。そのころには、とうに輝きなど消え失せていたけど。
そうして、空いた片手で口元をおさえる。
姿勢をそのまま固定して、ちらり。お嫁さんと一緒に笑ってる、彼女の相棒を横目で睨んだ。軽く。
「ぷ」
「……僕のせい?」
「ぷーぅ」
そりゃそうだ、とばかりにその子は頷いた。
すっ飛んだ先の砂浜で、流れ着いてた彼女を見つけたその子は、他の誰のせいだとばかりに頷いた。
「だよ、ねえ――」
そりゃそうだ、とばかりに力を抜いて、地面に突っ伏す。窒息はいやだから顔は横に向ける。視線はやっぱり小さな青い子へ。
「ねえ、そうなるとさ」
「ぷ?」
「この場合……どっちが先になるんだと、思う?」
「ぷーぅ」
小さな青い子は、肩というか、身体をすくめてかぶりを振った。
予想していた反応に、苦笑い。浮かべて、ごろんと仰向けになる。
青い空。
青い海。
ただ、ただ世界は青く――蒼く。
今しがたの現象など知らぬげに、穏やかな風景を視界におさめ。
「――――そりゃあ……開き直れるわけだよねえ……」
他に何をも云えぬまま、彼と彼らはひとしきり、肩を揺らしつづけたのだった。
たまごが先か、にわとりが先か。
干渉が先か、接触が先か。
因果の因が後なのか、因果の果が先なのか。めぐる因果は一方か。
――――考えるだけ、無駄。
たぶん、彼もまた、数刻としないうちにその結論へ至るだろう。
世の中、おしなべてそんなもんである。
そして頭上を見上げる。
「きゃああああぁぁぁぁあぁぁぁぁっ!!」
「な……ッ!?」
土と汗と金属のにおい混じる訓練場、その一角。
実に突然、本当に何の前触れも脈絡もなく頭上に生まれた気配をたしかめんと、顔を上に向けようとした彼の耳に、兵士たちのごったがえする訓練場には似つかわしくない悲鳴が突き刺さった。
そのため動作が一拍遅れる。
いや、この場合遅れて幸いだった。
遅れなければ、
「……ぐ……ッ!?」
この瞬間脳天を襲った衝撃の主は、頭ではなく顔面を直撃していただろうから。
実にいい音だった、と、周囲にいた者たちは、後日それを証言する。
ぐらり、身体をかしがせ、意識を遠のかせながらも、彼は、襲撃者を視界におさめんと必死に目を見開く。
そして目にしたものは。
「――な――」
身を守る本能か、小さな身体をより小さく必死に丸めた子供。
これは夢か幻か。
あまりといえばあまりの事実に漂白された意識は、身体に受け身をとらせることも忘れてそのまま地面に撃沈させる。それから一気に暗転――
「……っ」
するかと思いきや。
「ぅ……」
あえて誰のことかは云わぬがクッションのおかげで衝撃を免れ、地面にぽてんと落ちたその子供は、きょろきょろと周囲を見渡して硬直する。
なにしろ、ここは訓練場。
いるのは屈強な男ばかり、しかも武装して闘争心露な兵士ども。少し離れた場所には、無骨な機械兵士までもが控えている。
これを見て、
「う……ふえ……っ」
こわがらぬほうが、
「ぅ―――――うわあああああぁぁぁぁぁああぁぁぁぁん!!」
おかしいと、いうもので――
「う、うわ」
「泣いた!?」
「泣いたぞ!」
「どどどどうするんだよ!」
「わかんねえよ!」
「そもそも何なんだよ、これって聖王国の奇襲か!?」
「ありえねえー!?」
「また顧問召喚師が変な実験したとか!」
「あの人今遠征中だし!」
「じゃあ何なんだよ!」
「知らねえよー!!」
そして、堰をきったように騒ぎ、うろたえるその場の一同。
「うああぁぁぁぁぁん――――っ!!」
その騒ぎに触発され、余計泣き叫ぶ子供。
遠ざかりかけていた彼の意識が、一気に現実へ引き戻される。
「おとーさんおかーさん、あやねーちゃん――――――どこ――――――っ!!」
うあああぁぁぁぁぁぁああぁぁん!!
小さな身体のどこに、そんな力があるのか。
もはや咆哮とも云えそうな絶叫は、恐怖と不安のせいだろう。それは誰の目にも明らかだった。
だが誰も動けない。
凍りついたように、虚空から現れた子どもを、どうしたものかと考えあぐねて見るばかり。
……いや。
「――――っ」
誰も、ではなかった。
まだ少し、ふらつく頭を軽く振り、彼は、今出来うる限りの速さで篭手を外し、肘当てを外し、素手になる。
赤紫の髪を揺らして身を起こし、泣き叫ぶ子供――よくよく見れば小さな女の子――へと近づいて、
腕を、
伸ばし。
手を、
差し伸べ。
「――――」
細心して抱き上げると、涙に濡れた夜色の双眸が、きょとんと丸く。赤紫の双眸を、映しだした。