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月籠
終わりを示すこのことばは、始まりを示すことばでもある




 それは、誰も知らない昨日。


 陽射しの穏やかな、ある午後。
 森のなかに、一組の男女の声が響き渡る。
「レイム! いい加減にしてくださいっ!」
「何を仰います、こんなに美しい貴女の姿を記録しておかずしてどうしろというんです!?」
「何もするな――――!!」

 ――がっしゃーん!

 何かが投げつけられた音がした。
 金属が砕けるような、そんな小気味のいい音だ。
「あああっ!? 私のカメラが!? 貴女の一糸まとわぬ麗しい姿をおさめた記念テープがあぁぁぁ!?」
 そして、響き渡る絶叫。
「人が沐浴してるトコロを隠し撮りしといて何が記念ですか!」
 同じく響き渡る怒鳴り声。
 元々この森は静かなのだけれど、今はこんなありさまだ。さっきからの騒ぎで、動物たちがおびえてしまったのか、ふたりのもの以外生物の声はない。
 だからして。
 ぜぇ、はぁ、と。
 怒鳴りあったふたりが息を整え終わるころには、いつにも増した静寂が満ちていた。

 まあ、と、気を取り直したように、つぶやく彼女。
「……叩き壊しちゃったからもういいけど」
「よくありません!!」
 そんな抗議もなんのそのだ。
 しれっと揮われた白い焔が、砕けたカメラの欠片を直撃した。
 完膚なきまでの抹消。ここまで徹底していると、いっそ見事である。
 そして、その傍らでは同じくらい真っ白になった誰かさんの姿。

「まったく。何度云えば判ってくれるんですか?」

 呆れた調子の声のあと、もう一度腕が振られる。
 まるで蜃気楼のように、その一振りで焔は綺麗に消え去った。
「転生しよーがなんだろーが、わたしはわたしで、魂も記憶も消えやしないんだから……そう、したんだから」
 だから毎回、転生するたびに人の記録映像撮るのやめてください。
「ですがどの姿の貴女も、私にとっては宝石のようなのですよ?」
 不機嫌。
 というよりは、むしろ不貞腐れた表情でもって、レイムと呼ばれたその男性は、カメラの残骸があった場所から視線をはがすと、くるりと女性を振り返る。
「それらのすべてを残しておきたいと思って、問題がありますか?」
「貴方の場合、その手段とか行動とかに問題があると思うんですけど」
「何を仰います。これもあふれんがばかりの愛がそうさせるのです!」
「ちょっとは自重してください。お願い。」
 頭痛を覚えたらしく、女性はこめかみ押さえてしゃがみこんだ。

 それから。
 さすがに、ちょっとばかり哀しそうな顔になった男性に気づくと、苦笑してそれを手招く。

 呼ばれたことが嬉しいのか、スキップでやってきたその光景に、また頭痛を覚えたらしいが。
 ……いや、それは根性で押し込めたようだ。
 整った相貌を持つその顔に、彼女はそっと手を添える。
「……見た目【だけ】はとってもまともなのに……」
「そうですか? 一応、人間の云うところの美的感覚に則って用立ててみたんですが」
 貴女のお気に召していただいたのなら、嬉しいですね。
「……鼻血さえ出さなきゃ、って感じですけど」
 懐から手ぬぐいを取り出して、先刻隠し撮りしている間に零れたらしい鮮血をぬぐってやる。
 そうしながら、少し寂しそうに微笑んだ。

「わたしは、あなたがいればそれでいいんですよ?」
「私も、貴女がいてくだされば、それでいいんですよ」

 かつて、リィンバウムを手に入れようと画策した悪魔は、女性のことばにえもいわれぬ笑みを浮かべてそう応えた。

「でも、貴女を縛る鎖は気に入らないんです」
 いつか断ち切ってあげますからね?
「でも、別に鎖なんてどうでもいいのよ」
 貴方がいるなら、永遠だって越えられそう。

「……貴女を自由にしてあげたいだけなんですよ、私は」
「……貴方がそう思うのが、わたしにはちょっと辛いんです」

 鎖は、世界を壊さなければ切れることはないだろうから。

 力の大半を奪われてあの地に封じられた悪魔には、今はそれを行うことは出来ないけれど。
 もともとの目的であった、リィンバウムの制覇も出来ないけれど。
 いつか望みを成すために、少しずつ、世界の邪気を食っている。
 そのことを彼女は知っている。

 だから、彼女は繰り返す。

「鎖は気にしないで。だって、わたしの一生が何百回続いたって、貴方はいてくれるでしょう」

「ですが、いつか私も、貴女を置いていくことになるんですよ」

 無限に近い生命は、イコール、無限の生命ではない。

「……そのときまでに世界を説得してみせます」
 自分で用いたくびきだもの。
 自分に壊せないことはない。

「だから……待っててくれませんか?」

「待てません」
 いくら貴女の頼みでも、こればかりはね――

 悪魔は彼女の髪を手にとって、ゆるりとゆらりと優しく笑う。

「――たとえ貴女の魂は不滅だとしても、今ここにいる貴女は一度きり」

 何度も何度も、その一度きりが消滅するのを悪魔は見た。

 記憶も、想いも。
 その魂に刻まれたままなのだとしても。
 その肉体は、いつか朽ちる。
 朽ちたとき、常ならば世界を巡る輪廻に戻るはずのそれは、彼女にとってだけは例外。

 鎖が魂を絡めとリ、すぐに新しき彼女が生まれる。記憶も絆もそのままに。

 けれど。
「貴女の滅びを何度も見て、それで平常でいられるほど、私は図太くないんですよ」

 その魂を世界から奪ってやろうと何度も試み、ことごとく、鎖にそれを阻まれた。

 彼女がかつて、望んだ鎖で。
 自分がかつて、かの一族の魔力を奪ったが故に。

 ああ。それをきっと、後悔というのだ。

「だいじょうぶ」
「……」

 にこりと。
 微笑んで、彼女がその手に口付ける。

「わたしは貴方の傍にいる。貴方がわたしの声を聞き取ってくれる限り、わたしは貴方のものでいる」

 忘れないで。
 わたしが望むのは、今はただそれだけだから。
 そのためになら、一度選んだ道も覆してみせるくらい、頑張るから。

「私も貴女の傍にいますよ。貴女が私に名をくれた。それが銀に輝く限り、私の心は貴女のものです」

 忘れませんよ。
 私が望むのも、結局それだけなのですから。
 だからそのためになら、貴女を私から取り上げるものは許さない。

「……分からず屋!」
「貴女が甘いんですよ?」
「レイムが変なだけよ」
「いえいえ……」

 だけど今は。このときは。
 優しい日の光のしたで――笑いあっていられる。


 そのとき感じていた感情の。なまえをたしか、

 しあわせ と、いうのだったっけ?


  ――否。





 いったいいつから、テメエらは、そーいう仲になったんだ?

 呆れた様子の魔公子が、そう問うてきたことがある。
 守護者と悪魔は顔見合わせて、いつからだろうかと首をかしげた。

「私を殺すつもりですよね?」
「わたしを食う気はまだあるんでしょ?」

 はい、そのとおりです。

「でも彼女が鎖に縛られているのは、見ていて腹立たしくなるんですよ」
 どうせなら、何にも縛られていない、きれいな彼女を食らいたいじゃないですか。
「なんていうか、レイムがいるのが自然なんですよねぇ」
 鎖のことを気にしないでいられるから、彼がいると気が軽くて。

 それを聞いた魔公子は、とうとう頭抱えて果てたとか。



「おいメルギトス。テメエ、リィンバウムに来てボケたんじゃねーか?」
「何を仰います。先に彼女に逢ってボケたのは、そちらのほうでしょう」

 魔公子は、反論できなかったらしい。
 勝ち誇った笑みを浮かべた悪魔と、むかっ腹が立った魔公子は、その後死闘を繰り広げたそうだ。





 ――それは愛じゃない。恋じゃない。そんなやさしいきもちじゃない。悪魔にそんなものはない。
 ただそのすべてを欲していた、その感情の名前なんて、きっとずっと知ることはない。


 それでも

    欲するのはいつでも、いつからか、 あなたひとりだけ



  あなた以外、だれも、この自分の横には要らない
  あなた以外、だれも、この生涯へ伴は要らない


「私が貴女を喰えないまま朽ちるときがきたならば、そのときは貴女をつれていきますから」
「……そのときになっても、まだ鎖が残ってたら、どうするんです?」
「もう、遠慮はしませんよ。世界ごと壊します」
「あっさり云いますねぇ……」
 わたしが守りたい世界を、わたしを連れるためだけに壊すんですか。
「当然です」
 貴女は、世界より私を選びなさい。


 どんな重みだろうと吹き飛ばすくらい、この心に刻み刻まれた  ただひとつ。

「独りで行く気はありません。――貴女以外の道連れなど、要らないのですよ」



  恋でもないし愛でもないし、やさしい感情なんかじゃないし。


 それでも、それは、ただひとつ。

  悪魔がたったひとつだけ、心に刻んだ最初の願い。



 それは、誰も知らない昨日。
 それは、すべてが始まる前。
 今となっては、銀の細工物だけが覚えている、優しい日々。







「ねえ、レイム」
「はい?」
「わたしは――、この世界が大好きよ」
「貴女の守り続ける世界が、私は、大嫌いです」

 守護者は、むっ、と顔をしかめて。それから、すぐに晴れやかな表情になり、告げる。

「あなたのいる今が好き」
「……ずるいですねぇ」

 そんなことを云われては、もう反論出来ないじゃないですか。




 苦い顔になった悪魔を見て、彼女は、ふふ、と微笑んだ。


 りぃん、と。
 ふと吹いた風に揺られて、その胸元にある銀細工が、涼やかな音をたてていた。





 それは、誰も知らない昨日。
 今となっては、銀の細工物だけが覚えている、優しい日々。
 守護者と悪魔の他愛の無い日々、睦みごと。


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