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-エピローグ-




「じゃあ、結界が起動すると同時に、オレたちに関する記憶にフタをするんだな?」
「消すわけじゃあないんですね」

 ――――“そのとおりだ”
 ――――“無理矢理に記憶を消去しようとすると、その者の人格にも影響を与えかねない”
 ――――“それは、汝等の望むところでもないだろう”

 エルゴのことばに、とバルレルは顔を見合わせ、こっくり頷いた。


 それは、たかだか数日前。
 だけど今となっては、何ヶ月も前のことのよう。
 エルゴの領域を辞するとき、最後に確認した事柄の記憶。
「ま、とりあえずそれを信じるしかねーな」
「あたしたちが今こうしてるんだから、大幅に変わったりとかはしてないと思うけど……」
 記憶もちゃんとしてる。
 この時空間に飛び込んだあと、互いの知ってるあの物語についてとバルレルは語り合った。
 記憶の相違はなし。矛盾もなし。
 ばっちり確認して安心してから、ようやくふたりは、その時間に別れを告げた。
 ……まあ、もしかしたら自覚もしてないうちに改変があってるのかもしれない。
 変わったことにさえ気づかないまま、変化を受け止めているのかもしれない。
 でもま、それはそれ。
 知らずにいることなら、改めて突っついて悩むだけムダ。
 なつかしいちびっこ姿のバルレルと並んで歩きながら、はちょっぴり浮かれていた。
「でさ、でさ。ここってつまり、どういうトコロ?」
 ミモザさんにすっ飛ばされたときには、こんなとこ通らなかったよね?
 だが、のことばに、バルレルは首を横に振った。
「いんや。通ったはずだぜ。行きはあんまり強引に飛ばされたせいで一瞬すぎて、気づかなかっただけだな」
「へえ、そうなんだ?」
 頷いた拍子に、赤い髪が視界の端で揺れた。
 実は真っ先に戻そうと思ったのだが、バルレル曰くの『鍵』がその邪魔をする。
 鍵はふたつ。
 が、であると世界に宣言すること。
 を知ってる人たちのいる、あの時間に帰ること。
 こんなところでだなんて宣言できるはずもないから、使える鍵は必然的にふたつめ。
 となれば、帰るまではそのまんま。
 ……いいけど。赤い色にも慣れてきたし。
 フ、と妙に悟った気分になってるに、バルレルが解説してくれる。
「界の狭間、ってあんだろ。アレのもう一つ二つ向こうっ側にある場所だ」
 ここじゃあ、界と界が重なってるだけじゃねぇ。
 時間とか空間とかが、迷宮よろしくしっちゃかめっちゃかに入り組んで、ニンゲンが一度飛び込んだら、まず生きては出れねーな。
「ま、あんまり長居してると要らねぇ影響受けるしな。さっさと出るにこしたこたぁねえ」
「……ちょっと待て」
 生きて出れない、って、あんた。
「だから、ニンゲンなら、だよ」
 テメ、人の話はちゃんと聞け。
 ビシッと繰り出されたチョップが、見事に腰にヒット。
 バルレル本人は、おっきいときのくせで後頭部を狙ったつもりなんだろう。
 腰をおさえて悶えるを見て、自分の手を見て、
「あーそっか。もう戻ったんだっけか」
 なんか調子狂うなぁ、などとのたまう始末だ。
「じゃあ、大きいままでいたら?」
「冗談じゃねぇ。誓約解けてんのバラす必要、どこにある?」
「いいじゃない別に。トリス、かけなおしたりはしないと思うよ?」
「アイツはそうでも、メガネとかがうっせぇだろ。後、派閥関係者のおカタいヤツあたり」
 あーそっか。
 懐かしい呼称のいくつかに、ぽん、と手を打ち合わせたの表情は、やっぱりふんわりほころんでいる。
 そんな彼女を一瞥して、バルレルはきょろきょろと周囲を見渡した。
「あー、と……このへんから接点感じるんだがなァ……」
「んー?」
 ひょい、と覗き込んだ場所には、何もない。
 なんか複雑なモノがふよふよと、形容できない動きで漂っている。
 なんというか、昔ながらのSFの四次元空間ってなモノを思い描いてもらえばいいだろうか。
 そこに、バルレルは無造作に手を突っ込んだ。
 壁かと思ったそれは、難なくバルレルの手を飲み込む。
「……うっわ」
 常識ではまずありえない光景に、は思わず声を漏らした。
 腕を肘辺りまで突っ込んで、バルレルは何かを捜しているようだ。
「――――お」
 あったあった。
 見守ることしばし。
 一本釣りよろしくバルレルが引き抜いたのは、まず自分の腕。
 そうして、その手につかまれた、糸のような光が――二本。
「何、それ?」
「あー、まあなんつーか。オレらの辿った道の糸?」
「わ、判るような判らないような……」
 よく見れば、そこかしこに、その糸のような光はあった。
 数えるのさえバカらしくなるほどの、まさに無数というべきたくさんの糸。
 バルレルのことばをなりに解釈したとおりなら、この一本一本が、一人一人の歩む軌跡なんだろうか。
 それらは、時間や空間と密接に絡み合い、ときに突き抜けときに迂回し、巡っている。
 目で辿るだけで一本を追いつづけることは、まず不可能だろう。
「ただ手探りでいくと、まずニンゲンの一生2、3回分の時間はかかるからな、辿り道の保険だ」
 この地点のが、ちょうど、オレらが逢ったあたり。
 糸をに手渡しながら、バルレルは告げる。
「これに沿って進んで、途切れるか不自然にねじれてるあたり――今のオレらが認識出来ねえあの時間の先が、オレらの戻る場所になる」
「…………」
「……ま、何も考えねぇでついてこい」
 やっぱり微妙に首をひねるの手をひき、バルレルは歩き出した。
 片手に自らの糸を握り、片手をバルレルにひかれ、もまた歩き出す。
 糸は、いくつもの時間と空間を通る。
 いくつもの、共有する記憶を辿る。
 燃えたレルム村、ゼラムでのイオスたちとの攻防、そうしてファナンへ転がり込んだり、禁忌の森へ行ったり――
 映像というほど鮮明でなく、なんというか、記憶を刺激されているという感じ。
 一瞬だけフラッシュのように、その光景が脳裏に浮かんでは消える。
 妙な例えだが、それこそまるで走馬灯のようだ。
「うわー、バルレル、ほらほら。昼寝昼寝」
「見るなンなもんいちいち!」
 モーリンの家で、昼寝というか朝寝をしたとき。
「……痛そう」
「ケッ。あんなもん屁でもなかったぜ」
 禁忌の森で、悪魔と追いかけっこをしたとき。
 たくさん、たくさんの記憶。映像。
 指さして笑ったりツッコんだり、時々しんみりしたりしながら。
 ふたりは、てくてくと糸を辿って進んでいく。

 ――が。

「オイ?」

 ぴたりと。
 突然足を止めたを、バルレルが不審げに振り返った。
 つないだ手が小刻みに震えているのに気づいて、さらに眉をしかめる。
「オイ!」
「……行きたくない」
 苛立たしげな呼びかけに答える声さえも、震えていた。
 たった今通り過ぎた場所。
 シルヴァーナで飛んでったミニスを、みんなで追いかけた。
 黒の旅団に狙われる可能性のあるファミィさんを、助けなくちゃって。
 そうして、ファミィとケルマはミニスが救出した。
 それから――戦った。
 黒の旅団と。
 ルヴァイドと、イオスと、……ゼルフィルドと。
 それから――何があった?
 そのあと――何が起こった?
「やだ……」
 見たくない。
 また、あの光景を見るなんて、出来ない。
「行きたくない……」
「何云ってやがる? これ辿らねぇと、本気で時間彷徨う羽目になるぞ!?」
 なんのための保険だと思ってんだ、テメエは!
 怒鳴るバルレルの声も、だけど、あまり迫力がない。
 彼とて判っている。
 この先に待つのは、ひとつの喪失。
 この先にあるのは、大きな喪失。
 あの戦いでが感じた、たぶん、いちばん大きな喪失の感情。
 だけど、ここを越えないと帰れない。
 だけど、またあんなものは見たくない。
「よ……避けていくのは、だめ?」
「……出来ねェな」
 糸を辿る以上、それと外れた動きは出来ねえ。
 万が一糸を持ったまま道を逸れようとしたが最後、自分の過去を捻じ曲げる。
「あたしだけ糸放して、バルレルについてくのは?」
「バカ野郎。辿れるのは自分の糸だけだ。他人のに沿おうとしたら、弾かれんぞ」
 んで、確実に時空の迷子。
「じゃ……ふたりとも一度糸を放して、迂回して……」
「念のため云っとくぞ。さっきあっさり見つかったのは、まぐれだ」
「なっ」
 てゆーか、オレとオマエの道が初めて並んだのが、さっきの地点。
 そうバルレルは付け加える。
「……なんていうか、たがいに認識が生まれた地点、ってんで見つけやすかったんだ。だがそのあと、特にでかい変化はねェからな」
 ずっと。
 あの日から、ほとんどの時間を一緒にいた。
 サイジェントに飛ばされたときも。
 イオスからデグレアの駐屯地にかっさらわれたときも。
 ……あのときも。
 そうしてその前後さえも。
 だから、並んだ糸に変化はない。
 バルレルのいう、別の認識ってものがある地点は、ない。
 あるとしたらそれは、3手に分かれて向かった先のデグレアで、彼が魔公子に立ち戻ってが彼女を呼んだときくらいだろうか。
 でも、一度糸を放したら、また見つけるのは至難だとバルレルは云う。
 手を放したあと容易に見つけるためには、結局、大回りなんてできっこない。
 つまり。
 この場所を、どうしても、通り抜けないといけないってことで――
「・・・・・・」
 ゼルフィルドのあの瞬間をもう一度、目にしなくちゃいけないってことで――

「・・・・・・・・・・・・ッ」

 怖い。
 怖い、怖い、見たくない。
 嫌だ。
 嫌だ、嫌だ、もうごめんだ。

 ……でも。
 帰りたい場所は、その先にしか、ない。

「……行けるか?」
 いつになく。
 遠慮深い……というか、気遣ってくれてるバルレルのことば。
 応えて、
「うん……」
 震える声を抑えつけ、うなずいた。
 バルレルの手を握る自分のそれに、力が入る。
 握ってくれてるバルレルの手に、力がこもる。

 そうして、歩きだした。

 一歩。

「……」

 また一歩。

 脳裏に映る映像。見たいなんて思ってないのに。
 いや、これは記憶。
 辛くて痛くて哀しくて、ただ、蓋をしていただけの自分の記憶――

  イオスの槍撃。
  ルヴァイドの剣撃。

  そして勝ち得た瞬間に、現れた悪魔王。


 一歩。

「…………」

 また、一歩。

「……………………」

 そうして、一歩。


  明らかにされた。デグレアの真実と、悪魔たちの真の姿――


 一……

 ドクン

「……………………ッ」

 ドクン ドクン

 足が動かない。
 いつの間にか閉じてしまったまぶたの向こう、バルレルが振り返る気配がした。
 待ってくれるつもりなんだろう。気持ちが落ち着くのを。
 脳裏の映像は、ビーニャたちが本来の姿を現したところで止まっていた。
 あと一歩で、ルヴァイドがそこに向かうだろう。
 もう一歩で、そう、あの手が頭を撫でてくれた。
 そして一歩で――

 ド ク ン

 心臓が、ひときわ大きく跳ね上がる。
 自分の身体のことなのに、ひどく大きな驚愕に襲われて。
 反射的に、両手で胸を押さえていた。
「はっ……」
 息苦しい。
 心臓はこんなに勢いよく、自らの存在を主張しているのに。
 呼吸が出来ない。
 取り入れられた酸素がめぐることなく、肺で留まっているようだ。
「オイ!」
「……っ」
 判ってる。
 弱いのはあたしだ。
 過去は過去なのに、ちゃんと見なくちゃいけないのに。
 理解してるくせに、こんなふうに拒否してしまってるあたしが、弱いんだ。
 でも。

 ドクン

 心臓が跳ね上がる。
 立っていられず、はその場に座りこんだ。
 両手で押さえた心臓は、だけど、ちっとも落ち着く様子を見せてくれない。
「……ぅっ」
 頬が濡れている。
 目の奥が熱い。
 身体の芯が、ぎりぎりと絞り上げられるよう。
「判った! 判ったから手ェ寄越せ!」
 落ち着くまで待ってやっから!
 バルレルの声は、どこか遠くから聞こえた。
 怒鳴っているのとはまた違う、ひどく切羽詰った声。
「う……うん」
 うなずいて、手をのばした。
 だけど、すぐ傍にいたはずのバルレルのそれに、いつまで経っても指先さえ触れない。
 あまりに拒否する気持ちが大きくて、身体の感覚がおかしくなってしまったんだろうか。
 いつの間にか、浮遊感のようなものまで覚えてしまう始末。
 ――いや。
 さすがに、これはおかしい。

「目ェ開けろ! !!」

 バルレルの叫びが、

「――――ッ!?」

 目を開けさせた。
 そうしてとらえた視界に、は瞠目する。
「ば……バルレルっ!?」
「バカ野郎が……!」
 ここがどういう空間か説明しただろうがよッ!?
 糸を手放したの身体は、文字通り、浮遊していた。その意志がないにも関わらず。
 第三者が見たならば、釣り糸の切れた魚が、再び流れに飲みこまれていく姿を思い出したかもしれない。
 けれど、ここは川ではない。
 魚は確実に、下流に流れると決まっているわけではない。
 時間と空間が複雑に歪曲した、界の狭間のさらに向こう。
 バルレルのいつにない焦燥の理由は、云うまでもなかった。
「バルレル……っ」
 先ほどの後遺症だろうか、やけに力の入らない手足を懸命に動かしても、遠ざかる彼との距離は縮まらない。
 とっくに自身の糸からも手を放したバルレルが飛び上がり、彼もまた懸命に手を伸ばす。
 流れに抵抗しようと、も我を忘れていた。
 視界の端に、ちらりと。
 見えた糸を支えにと、無意識に手が動いてつかむ。

 その瞬間。
「バッ……!」
 他人の糸に沿うってのがどういうことか――
 よりも強くそれを知っているバルレルが、目を大きく見開いた。

 その刹那、


 声が

 『守れなかった――』

 『守るための力を、手に入れたはずなのに』

 嘆きと哀しみと、

 『俺たちが弱かったから……』

 『私たちが奇麗事ばかり夢見たから……』

 絶望と虚脱と、

 『だったら……』

 『もう……』

 ――憎悪に、砕け散る心の。


 ……声が聞こえた……



「だめぇっ!」
 反射的に叫んでいた。
「っ!?」
 もう少しで触れ合うところだったバルレルの手が、それに驚いて一瞬止まる。
 それが致命的。
 そうして決定打。

 光が炸裂する。
 問答無用の煌きと、有無を云わせない輝きで、少女と魔公子の視界を埋め尽くし、姿さえも飲み込んだ。

「こっ……んの、バカ野郎がーっ!!」
 もう知らねぇ! テメエ一人でなんとかしろ!!

 ブチ切れた、魔公子の叫びが最後。

 他者の道に触れた異物を、その糸が排除しようとしたのか。
 それとも、逆に――
 理由は、誰にも判らない。
 光に飲み込まれたふたりにも、また、その糸の本来の主人さえにも。

 ……けれど、たしかなことは。

 光がおさまったとき、その空間のその場所には誰もいなかった。
 少女の姿も魔公子の姿も、髪の毛一筋でさえ見ることが出来なかった。

 ……そう。ただそれだけが、確固としてそこにある事実だったのだから――


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