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・恋愛方程式・



 ――――目が。
 ――――耳が。

 ――――そして自分の魂が。


 今度こそ、壊れてしまったかと。
 ゆめをまぼろしを、かなわぬねがいを、ほっするあまりに。

 壊れたかと――――思ったけれど。



 唐突に現れた彼は、いーさんを追い詰めて追い詰めて追い詰めた殺し屋、澪標の双子とやらを、いともあっさり退けた。
 ……それはそうだ。
 殺し名の序列がどうのとか、そういうのと関係なしに、彼は、そういうのとは一線を隔してる。いや、同じ一賊である人々とも、どこか隔てた位置にいる。
 殺人鬼のなかの殺人鬼。
 零崎のなかの零崎。

 それが彼。
 彼――零崎人識。

 いーさんと、ぽんぽん、愉快なやりとりを進行中である彼のいでたちは、見覚えているものとは随分違っていた。
 以前はまだ、そこらへんにいる一般人とか云われて違和感のない恰好だったのだけれど、今は、――まあ、正直、

 どこのコスプレイヤーだ、あんた。とか。

 ……云ったら、不機嫌になったりして。
 いや。
 それより先に、あるだろう。云うことは。
 云わなければならない、ことは。

 だけれども、声が出なかった。
 幽霊やって早数ヶ月のくせ、未だに人間だったころの肉体感覚は、薄らいでなんかない。
 曖昧に、ふわふわと、宙に漂いつづけるまま、――在って。
 ただ、在っただけで。
 ただ、そこにいただけで。
 それだけで、何も出来ずに――――

「……」

 少し焦れたような素振りで、人識が、いーさんとの会話キャッチボールを打ち切った。軍服めいたコートの裾をひるがえし、こちらへ向かってやってくる。
 どこか、へらっと笑ってる表情。
 サングラスを外して露になった、深い深い深い――深く病み、深い闇。
 そうして、数歩程度の距離を開け、零崎人識は立ち止まる。

 に、と、深まる笑み。
 来い、とばかりに広げられる両の腕。

「弥栄」

 紡がれたことば。
 音ならみっつ、仮名でもみっつ、漢字ならふたつ。
 たったそれだけの、音もしくは字の羅列。

 ――弥栄。

 彼が与えて彼が呼ぶと決めた、――名前。

 ――人識。

 彼は唯一、この手が届く、この手が触れる、――殺人鬼。

「……人識……っ!」

 宙を蹴って、その腕のなかに飛び込んだ。
 人識は、すぐさま、両腕を弥栄の背にまわし、ぎゅう、と己に押し付ける。
 肩口に顎を乗せているせいか、呼吸で起こる些細な動作さえ、明確に伝わる。
「ん――――」
 軽く鳴らされる喉の、そんな吐息さえ、大きい。
「まぁ――だ死んでたのか、おまえ。飽きねーのな――」
「もう、死に終わる方法なんて、忘れちゃったよ……!」
 逢いたくて。
 触れたくて。
 不安で。――不安で不安で、ずっとずっと恐ろしくて。

 門の場所なんて、忘れてしまった。

 ためらいもなく、そこへ向かったはずの幾つもの魂を見送ったのに。
 彼らがどこへ行ったのか、本当に、判らなかったのだ。

 肩口から、零れる笑い。
「や――いや、いやいやいや。それでいー。それでいいよ。それでいいんだよ、おまえ」
 そして、
「一見」、いーさんが、どこか脱力したような様子で割り込んだ。「恋人同士に見えなくもないきみたちに――というか、零崎に質問」
「あ?」
 とたん不機嫌な声で、人識はいーさんを振り返る。
「おまえ、ここで割り込む? 感動の再会中なの、見て判んね? 自分が置いてきぼりだからって俺と弥栄の間を引き裂こうってか、相変わらずいい性格してんのな欠陥製品」
「君と弥栄ちゃんの間にそもそも引き裂くための力を加える隙間さえあるのかどうかさえ疑わしいだろうが。そんな無駄なことはしないよ人間失格。ただこのままほっとくと、延々と、それこそ三日三晩くらいその状態が続きそうだったしね。一応ほら、ここ、誰かさんたちが破壊工作した直後でもあることだしさ」
「ほうほうなるほど、さっさと離れて立ち去るべしか。立つ鳥後を濁さず、たまにはおまえもいいことを云う。それから同感、引き裂く余地も隙間もねーよ、だってこいつ、俺んだし」
「だからそんなの判ってるっての。だけど一つ云わせてもらうならさ、そんなに所有権ばかり主張してると、そのうち弥栄ちゃんだってうんざりしちゃうんじゃないのかな。きみ、もう少し、ことばのレパートリー増やせよな。きみは云われたことないだろうけど、弥栄ちゃんだって女の子だぞ、いろいろ乙女心ってもんがあるんだし」
「乙女心と秋の空。ことわざニ連発、わりと暇なのな俺。しかし、だったら、不安はともかく切り替わりなんぞするよーな時点で弥栄じゃねーな。今さらおまえに心配してもらうまでもない、海より広い俺の心はいつも充分、溢れて零れて溺れて窒息する勢いで、弥栄にはちゃんと伝わってんよ」
「オッケイ、きみののろけはよく判った。弥栄ちゃんの話は今日までわりと聞いてきたから、ここではあえて聞かないでおくよ。さて、それで本題の質問なんだけど」
「おう、どうぞ」
「付き合うなら身長170ないと駄目って、さっき、きみ云ってたけどさ」
「アホ」
 最後まで問いを紡がせず、人識は、いーさんのことばを遮った。
 口を挟むどころか、ついていくのがやっとだった鏡像ふたりの会話が、そこでやっと一旦止まり、弥栄は、渦巻いていた頭を整理する。
「そりゃ、オトモダチカラハジメマショウの場合だろ。前言撤回、やっぱおまえ、なんも判ってねーよな」
「ああ、撤回する必要はないよ零崎。今判った。つまり、きみはこう云いたいわけか。弥栄ちゃんとのことは」
 そこで一呼吸置いて、いーさんは云った。

 ――――すごく、すごく。嫌そうな顔で。

「運命だって」

 それを聞いた人識もまた、すごく嫌そうな顔になる。

「何その反吐出しそうな顔。てっか、こっち来んな」
「その、運命だとかなんだとか、そういう展開に少し飽きを感じててね」
 さもありなん。
 思わず同意する弥栄を抱く人識の腕は、いささかも弛むことがない。
「運命――運命ねえ」
 かはっ、と、彼は笑う。
「傑作な表現だな、欠落。おまえ、どこでそんなん覚えたのよ?」
「……きみがのんきに海の向こうでバカンスしてる間に、こっちはこっちでいろいろあったんだよ。弥栄ちゃんからでも聞いてくれ」
「誰がのんきだ。勝手に決めんな」
 顔をしかめて舌を突き出し、いーさんに毒づく人識。
「だいたい何だ、云うにことかいて運命て。そんなたった漢字二文字で片付けられちゃたまんねーよ。弥栄が俺に殺されそこなったのも、俺が弥栄に息の根止められたのも、みーんなあらかじめ決まってたってか? ノストラダムスがアカシックなんたらを読んだなかにあったんですか? ――――ハッ」
 ばかばかしい。
 盛大に刺々しい人識のことばに、むしろ弥栄が慌てた。
「い、いーさん……」
 ところがどっこい、いーさんは、さして気分を害した様子もない。人識に向かい合ったまま、軽く肩をすくめてみせる。
「じゃあ、きみなら何て云うんだ?」
「そんなん決まってる」
 戯言遣いの問いかけに、人間失格は笑顔で答えた。

「愛ってやつだ」
「漢字一文字じゃねえかよ」

 いーさんの突っ込みは、まれに見る本気モードだった。


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ネコソギ(中)読後、つらつらと思いつくままに。
再会だとかなんだとか、そのへん考えてはいますがふっ飛ばしてます。
これほどタイトルにそぐわない話も珍しい。一文字だけかよ。って。